KANJI ESSAY

~故きを温ねて新しきを知る~ 胡蝶の漢字エッセイ「温故知新」

漢字や書にまつわるエッセイを毎週更新中

2022年11月の漢字エッセイ

浅草酉の市 2022年11月19日

~文字から放たれる、江戸の粋~

浅草鷲神社

昨日、浅草鷲神社の酉の市に、今年もお札書きに行って来ました。
酉の市(熊手のお祭り)は、関東が中心ですが、毎年ニュースでも映るため、全国的に有名ですよね。

酉の市の起源は、江戸時代からで浅草、鷲(おおとり)神社と、足立区花畑(はなはた)の大鷲(おおとり)神社が一番古いそうです。
鳥居門を入ると正面に 江戸文字が書かれた提灯がずらーっと吊り下げられ、ここは、中国でも京都でもどこでもない、江戸に来たんだ~!という気持ちに一瞬で切り替わり、まさに商売繁盛の意味を持つ文字が適材適所に彼方此方にあって、存在感を放っているのを感じました。

そして私と、筆耕ドットコムのスタッフ何名かで毎年、熊手屋(福田屋)さんのお札を書かせて頂いていますが、福田屋さんは、実は鷲神社で熊手を売るお店が約150店ある中で  一番店舗数の多い5店舗を構える老舗の熊手屋さんです。
私たちは、お客様のお名前などを木札に書くのですが、商売繁盛を祈願するものなので、個人名以外にも、お店の名前や、社名を書く事が多くこのお店が繁盛しますように!という思いで揮毫しています。
江戸時代から、200年近く続く中で、このお札を書く職人さんも、世代交代を繰り返し、それに肖って、江戸っ子でも何でもない私がここで馴染んで書いていることも、ちょっと粋?!だな、と思いつつ…。お店の皆さんが、やはり地元の方々なので人なつっこい気質のおかげかと思います。

そして、家内安全、商売繁盛の威勢良い手締めと掛け声が響く中、書きあがったお札を見て、お客さんが喜んでいるのが隙間から見え、筆耕冥利に尽きる贅沢な瞬間でもあり、二の酉を終え次の三の酉も、もっと早くて、上手い字が書けるようにと願っているところです。

禅の書 2022年11月01日

~禅と茶の湯、そして書~

禅の書パンフレット

先日、世田谷区上野毛にある五島美術館で開催されていた「禅宗の嵐」秋の優品展をCACA(現代アート書作家協会)のメンバー約10名で拝観して来ました。
五島美術館は、東急(東京急行電鉄)の創始者、五島慶介の美術コレクションを保存展示している美術館です。
今回「禅の書」とその歴史背景が紹介され、見学会後の岡本先生の講義により少し全体像が見え、とても勉強になりました。

私なりに簡単に解説をすると、

鎌倉時代初期に、臨済宗の開祖である僧侶栄西が、中国へ修行へ渡り禅を(宋=徽宗皇帝の時代)日本へ布教し、同時に中国で儀礼でも用いられていたお茶の効能を知り、日本の鎌倉武士に普及させました。

そして、臨済宗の沢山の僧侶が中国と交流を深めて行く中、 円爾弁円(亡くなった後の称号=聖一国師)という駿河出身の高僧が、静岡茶を普及し、開祖となりました。(南浦紹明は、福岡で広めました)

因みに、お茶はそれ以前は、平安時代にも遣唐使空海がお茶の種を持ち帰って来ていましたが、位の高い天皇など、ごく一部の者だけが愛飲していた珍しいものでした。

そして、お茶がこの時代に根強く普及した最大の理由は、鎌倉から南北朝時代の戦国武士たちは、殺戮が日常茶飯事で、常に死と隣り合わせの生き方だった事で、お茶が、戦いの後の精神的な癒し効果となり、精神的な面でのオンとオフとして取り入れられ、流行していったそうです。
現代人のストレスとは比べ物にならないものだったに違いありませんね。

私たちCACAでは、昨年から「禅の書」を学んで来たつもりでいましたが、こういった裏側を知ると、茶の湯が、武士の世にとって、今より必要不可欠で、茶室の床の間に飾られた「茶掛け」の書の精神的な重さを考えると、書の役割も今より何倍も大きかったことが想像できます。
高僧の書が=「禅の書」と言えるとすると、書家の私が書くものは"禅の書のスタイルを含んだオリジナル書"になるのかなと思いました。
これかれらは少しでも、禅僧の境地を想像し、禅的スピリットを持って書こうと思いました。

※今回の展示では、花押が書かれた書状は1点しか見当たりませんでしたが、武士によって花押が盛んに用いられ花押が沢山生まれたことに対して、禅僧にとっては中国の影響が強いためか、花押ではなく落款が主に使われていたと言えます。

2022年10月の漢字エッセイ

宋徽宗の書 2022年10月13日

~美術を愛した宋時代のラストエンペラー~

徽宗皇帝が生み出した書体、痩金体(そうきんたい)と呼ばれるオリジナルフォントをご存じでしょうか?
名前の通り、針金のような細くキレのある線が特徴で、好みも分かれるかも知れませんが、高貴で強く美しい書体です。

痩金体の模写
(痩金体の模写)

模写してみて気が付いたことは、皇帝らしく縦に伸びている形なのと、収筆(斜めに大きく抑える)など規則性がはっきりあり、確かに、他に類のない特徴を持っている書体だと思いました。
でも、思ったより難しくはなく、癖を覚えると、突いて一気に抜く線はとても爽快で気持ち良いと感じました。ストレス解消にもおすすめです。

徽宗皇帝草書体
(徽宗皇帝草書体)

徽宗皇帝草書体の模写
(徽宗皇帝草書体の模写)

そして草書の方も、筆の運動が大きく、ダイナミックで即興で書かれた文字は「氣」やオーラが全開になり、自信を持っているからこそできる自由さを感じました。
こんな風に書けたら、政治の事など忘れてしまうのも無理は無いかも?と想像してしまいました。

徽宗皇帝は、前回のエッセイにも触れましたが、芸術家として才能を持ち、画業に没頭し過ぎ、民衆から反乱が起きているうちに他の国に侵略され滅ぼされてしまった悪名高い皇帝です。具体的には、宮廷の中に、芸術家の養成所を作ったり、美術品の保護や、研究などの活動に力を入れました。
そして、御妃など大勢の女性を置き名前が分かっているだけでも166人、子供も35人くらいいたそうです。徳川幕府の大奥は、徽宗皇帝を参考にしたのでは?と思ってしまいますね。

とにかく自分の私利私欲のために民衆から高い税を取り立て芸術へお金を投資していました。
その時代に生まれ、民衆として生きていたら、自分も反乱に参加していたかも知れませんが、長い歴史を俯瞰して見ると、中国美術史上、かなり重要な美術品の黄金期を築き上げ 芸術面で魅力的な中国を作り上げた人であり、平和を好んだ人だったのでは?と思いを馳せ、お会いして書や絵の話しを聞いてみたかったなと思いました。

京都花押記2 2022年10月04日

~中国の花押~

先日の京都で、相国寺承天閣美術館を拝観した際に、予想していなかった書画作品に出合い、足が留まりました。
それは、中国の宋徽宗皇帝の「白鷹図」に書かれていました。

宋徽宗皇帝の花押

宋徽宗皇帝の白鷹図の白鷹の頭の上の中央にあった郵便番号の記号のような形で書かれていた花押です。
日本の花押と違い、とてもシンプルで画数が少ないのですが意味は深く、「天下一人」の文字が三画で書かれています。
たった3本の線の中に皇帝であるという大きな意味を含ませている事を知ると、何倍もの価値を持って花押を観ることができ、花押の面白さを感じました。

宋徽宗皇帝 肖像画

中国北宋時代の徽宗皇帝(12世紀初、1082~)は、皇帝でありながらも優れた才能を持ち、芸術家として熱心だったことで政治が疎かになり、国が弱くなってしまったそうですが、徽宗皇帝が書いた作品を見ると超絶な腕前であることから、政治をさぼってしまうのは無理も無いだろうなと思ってしまいます。

そして、徽宗皇帝の花押は中国で一番有名だそうですが、徽宗皇帝の沢山の名品が残っている事で、同時にそこに書かれた花押も目に触れられる機会が増え、有名になったのではないかな?と思いました。

つづく

2022年09月の漢字エッセイ

京都花押記 2022年09月19日

~戦火での寺の危機を守った花押~

先週、私の在籍している現代アート書の展覧会があり京都へ行って来ました。
それに伴い、時間を作って必ず観に行く予定でいた展覧会がありました。
相国寺承天閣美術館での特別企画展「武家政権の軸跡-権力者と寺」という題目で、何やら、花押の匂いが漂っていたので、花押を知るための手がかりを、書籍ではなく実際にこの目で見られるのでは?と思い、帰りの新幹線の時間を気にしながら早足で拝観して来ました。

特別企画展「武家政権の軸跡-権力者と寺」ポスター画像

思った通り、沢山の花押に出合う事が出来ましたが、その多くはある目的のためでした。
それは相国寺を創建した足利義満以降、歴代の足利将軍と深い繋がりによって収蔵されていた沢山の遺品を、応仁の乱などの度重なる戦火から守るため、その時代ごとの権力者が、寄付により復興させて来た歴史があったからでした。
そのため、武家や幕府と、相国寺の住職や寺領との間で交わされた文書に「花押」がサインとして書かれたのです。

花押が、どのような役割で使われていたかという事や、花押の存在で全体が引き締まり、画面の中の起承転結の結となり、文書の重大性を示しているのを感じました。

つづく

伊藤若沖 2022年09月19日

先日、CACA現代アート書作家協会の京都展が開催のため、京都に行って来ました。
沢山ある神社仏閣の中で、いつも訪れているのが相国寺の承天閣美術館で、今回も拝観して来ました。
室町時代に足利義満が創建したお寺で、伊藤若冲ゆかりのお寺です。
若冲の作品が常設展示されており、その理由は相国寺の住職が若冲を早くから絵師として抜擢し、一生涯において、大変深い関係だったことから、若冲の絵が沢山収蔵されています。

伊藤若沖の作品

今回展覧会が開催されたギャラリーからも近い、錦市場で若冲は八百屋の長男として生まれ育ちました。
通るたびに若冲がこの辺で絵を描いて遊んだりしていたのかなと、タイムスリップした気になりワクワクします。
因みに、今回何としても行きたかった、藤井有鄰館(中国殷~清時代の書画、印、青銅器、磁器などが収蔵されている美術館)も拝観して来ましたが、展示されていた中国の明時代の絵画と、若冲の動植綵絵がそっくりでした。
義満が日明貿易で集めた明の美術品も相国寺に収められていたそうなので、それを見た若冲がかなり影響を受けて腕を磨いたことも納得できました。

京都二条城で撮影した雲龍(飛行機雲)
※京都二条城で撮影した雲龍(飛行機雲)

つづく

運慶の花押 2022年09月09日

今回は、鎌倉時代初期に天才仏師として腕を振るった運慶の花押に注目しました。

運慶の活躍の背景には、運慶の才能を見込んで鎌倉幕府が奈良から呼び寄せ、幕府のお抱え仏師となり、北条氏、三浦一族らが注文主となり、鎌倉に近い三浦半島で仏師10人くらいでチームを組み沢山の仏像を残したことがありますが、意外と知られていません。
運慶が棟梁としての役割も担っていた事が分かり、技術指導はもちろん、弟子の給料の事なども考えながら、依頼者の武士たちと色々な交渉をしていたのかな、など想像が膨らんでしまいます。

運慶の花押

運慶の花押について
私の個人的な推測ですが、運慶の「運」の草書体が花押の筆跡の造形と重なるのでは無いかと考えました。
模写してみると、今まで書いた中で一番、筆順が分かりにくく流れが掴めない難しい花押でした。
運の字のしんにょう部分は大きく弧を描き、運慶の仏像の動きの表現から来るのかな?とも想像しました。

2022年08月の漢字エッセイ

北条家花押 2022年08月31日

~北条一族の花押から見えて来る野望とは~

今回は、今大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公北条義時の花押を探るため、北条一族の花押を資料から、全て模写してみました。
幾つか分かってきたことは、花押の資料に掲載されている中で、断トツで数が多く、さらに他の時代全ての花押を見ても最多数であることに気がつきました。
花押が流行した時代=北条の繁栄した時期だったと言える?のが窺えます。

北条一族花押
〈※「書の日本史」掲載 ⇒鎌倉時代の200個のうち約60個が北条一族の花押)

源頼朝から受け継ぎ、政権を支配していた北条義時の花押を取り上げて見てみると、他の沢山の花押に比べ、縦長の形状で横(斜め)に動く線は短く、吐出した見せ場のような線は天辺に少し突き出した部分だけです。

北条義時の花押
〈北条義時の花押)

頼朝の花押と書いて比較してみると、頼朝の花押を基にし、義時の方が地味で、動きが少ないので書きやすいと感じました。

~義時の人物像~
義時は、頼朝の側近として最大の信頼を得ていましたが、頼朝の死後、嫡男の頼家が2代目征夷大将軍になり、まだ若かったため側近として政治を支えるために有能な武士団(チーム鎌倉)を固め義時が指揮官となり権力を持ちました。
姉の雅子ともタッグを組み、いつ自分たちが滅ぼされてもおかしく無い危うい時代のリーダーとしてどんどん残虐な選択をせざるを得ない状況に追い込まれていったのだと思います。

花押から見ても、リーダーでありながらも金銀財宝を収集したり、オリジナリティー性を主張するようなオーラのある人物ではないように思います。
逆に、地味だからこそ、人の心を見抜き人を動かす能力に長け、戦略の上での強みになっていたと言われています。
今の世の中でも、そういう社長の方が、現実的に人がついて行くのだなということを感じ、勉強になりました。

続く 

創造 2022年08月22日

先月、五峯ギャラリーで開催した展覧会に出品した中の一つ「創造」を昨日ご購入者のご自宅へ納品し、無事に嫁がせて頂きました。

ご購入いただいた決め手は「創造」という言葉が大好きな事と、ポップでカラフルな色調の額と文字の雰囲気が合っていて惹かれたとのこと。ご本人も、インテリアコーディネーターや工芸、書をやっている方なのでぴったりだったようです。

胡蝶オリジナル作品「創造」 画像

今回の作品の元になったのは、中国の漢時代以降の宮殿、陵墓、城壁などの部屋の壁、柱や門、床などに敷き詰めらえた塼(せん)=(煉瓦タイル)また画像石題記の拓本資料の中から文字を選び取り、紙は画用紙、筆記具はパレットナイフで描き、部分的にマスキングテープなどで装飾し、現代的な文字アート作品に仕上げました。

画像石題記

画像石門[君」

ちなみに画像石題と言うと、現代でいうモニター画面上に映る画像のことを思い浮かべてしまいますが、画像とは、動物や、文様などの肖像画を石に刻んだもののことです。

この塼や、石題の書体のベースは、篆書や隷書で、そこに鳥蟲篆などが装飾的に加味され、どれも古さが感じられなく、現代人にも通じる新しさすら感じます。
その理由は書の基本フォルムが根底にありながら、一字一字に多少の創作がされ、人の手による温かさと、石に刻まれた強い線が緊張感を生み、だたのレタリングだけではない永遠の美が宿っているからだと思います。

先週亡くなられた、ファッションデザイナーの三宅一生氏は、7歳のときに広島に投下された原爆で親を亡くし、自分一人が生き延びたというトラウマを逆境に、「破壊ではなく創造できるもの、美と喜びをもたらすものを考案するのが好きだ」と語り「再創造」という言葉をモットーとしていたそうです。

アバンギャルドでありながら、用の美が一体になったファッションが世界中の人に愛され、奇抜さだけでは飽きられてしまう、という事を教えられたような気がします。

2022年07月の漢字エッセイ

安倍元総理の花押 2022年07月19日

~安倍元首相の花押を読み解く~

安倍元総理の街頭演説での襲撃事件から10日が経ち、今でも事実だとは思えなく、いまだ安倍元総理の、はつらつとした声が聞こえて来そうです。
ご冥福をお祈りいたします。

安倍元総理の花押はどんな花押だったのだろうとふと思い、調べてみました。

安倍元総理の花押

推測ですが、(晋)の上部と、(三)を重ね合わせた形のようです。
(晋)の漢字の由来は(進)と同じで、縦の2本は矢を意味し、狙いを定めてどんどん進む、という意味です。
(三)は、3世代の意味がある事を考えると、政治家のトップの家柄に生まれた事にも結び付けられます。
祖父 岸信介(内閣総理大臣)、父、安倍晋太郎(外務大臣)

実際、どのような意味が込められ花押を作られたかは、分かりませんが、頻繁に、この花押を書いていたのだな、と思うと感慨深い思いが致します。

信長の花押 2022年07月11日

安土桃山後期から、室町時代の武将で、日本で最も人気の高い歴史上の人物で知られています。そして、花押も同様に最も人気があるようです。

織田信長の花押は、人生で沢山の花押を使用したそうですが、先週ご紹介した「麒麟」の麟をモチーフにして作られています。

胡蝶書 信長30歳の時の花押
(胡蝶書 信長30歳の時の花押)

私が書いた信長の花押を見てもらうと、花押として有名なので見た事がある人は多いかも知れません。
ただ「麟」の漢字をどうやったらこの形になるのかは私の知識では、残念ながら説明できませんが...。
漢字そのものより、動物の形として見た方が納得出来、格好いい、というより愛嬌が感じられます。
あとは、デザインとして2等辺三角形を横に倒したような安定した外形なので、手紙の最後にあると、安定して見えるという事もあると思います。

そして、なぜ「麒麟」がモチーフなのか?

麒麟は、泰平の世の前兆に現れる、想像上の生き物で殺戮を嫌い、命を大事にする動物です。
信長の「天下布武」の言葉の意味は、武力によって世の中を統一するという意味ではなく、「徳」を持って平和な世の中を創るという意味だったことが近年分かったそうです。
傍若無人で、ワンマンな性格もあったようですが、楽市楽座を設け、自由に商いができ、関所を廃止してどこでも行き来できるようにしたりなど、並外れた発想力で経済を豊かにし、楽市楽座の名前の如く、楽しい世の中にしたと考えていたのかなと思うと麒麟のように思えなくも無い、と思いました。

麒麟 2022年07月04日

麒麟 イメージ画像

麒麟(きりん)は日本ではキリンビールのロゴマークとして誰もが知っている霊獣の一つですが、中国で古くからの伝説としてどのような象徴かご存じでしょうか?

泰平の世(幸福で安定した世の中)の前触れに現れる伝説の動物と言われています。

中国では、龍、鳳凰、と比され、麒麟は麒が雄で麟が雌と言われており、容姿は鹿で、顔は龍、背丈は5メートル、牛の尾と馬の蹄(ひづめ)をもち、背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には蛇の鱗があり、様々な動物が集合した最強の動物ですが、性格は、とても穏やかで足元にいる虫や、植物さえ踏むことを恐れるほど殺生を嫌う優しい動物とのことです。

今まで漠然と、強くて龍のような勇ましいイメージがありましたが、泰平の世の前に現れる優しい動物だという事を知り、麒麟の存在が、癒しキャラのように思え、地球上のどこかで現れてくれることはもちろん、自分自身が、小さな世界で麒麟のようになれたらいいな~と思いました。

つづく

2022年06月の漢字エッセイ

胡蝶花押 2022年06月28日

~自分だけの漢字+平仮名のハイブリッド~

私、胡蝶の花押デザインを制作しました!

胡蝶の花押
(胡蝶の花押)

雅号 「胡」と「蝶」の草書の一部で構成しています。

胡蝶の花押 構成要素

蝶の虫へん+胡のつくり「月」と葉の下部「木」=「ふ」と(蝶々)=「てふてふ」の「ふ」を重ね合わせました。

胡蝶の花押 構成要素

胡蝶の花押 構成要素

平安時代では漢字は、男性の文字で平仮名は女手(女文字)とされていたことに習い、女性らしい柔らかさと、凛とした線で強さを花押で表現しました。

◆胡蝶の花押ストーリー
『虫(さなぎ)が蝶となり羽を広げ風に乗り 大きく羽ばたいて、ふわっと優しく舞い降りる...』

自分にはそんな優雅さはありませんが、雅号にあやかりたいという願いを込めました。

義経書状 2022年06月21日

~ 義経にも受け継がれている王義之の系譜 ~

源義経の自筆の書状と言われている2点のうちの1つ高野山金剛峯寺宝簡集の中の書体に注目してみました。部分を切り取って比較しました。

義経の自筆書状「部分」
(①義経の自筆書状「部分」)

義経の自筆書状「部分」
(②王義之字典より「事」)

義経の自筆書状「部分」
(③王義之字典より「別」)

写真の中の①と③は同じ「事」の漢字かと思われますが、①は行書、③は草書で書き分けされているのが分かります。
文頭の「高野山~」も行書が中心ですが、2行目以降段々と草書へと移行し、微かな墨量で2~3字を連綿で続けて書かれており、伸びやかな筆運びが、義経の若さと行動力の広さを感じさせます。

義経花押 2022年06月13日

~ 花押から見える源氏パワー ~

前回は、源頼朝の花押を取り上げ、花押に秘められた一面を覗く事ができ、ご好評いただきましたので、もっと花押の世界に視野を広げて行きたいと思います。
今回は頼朝の弟、義経の花押に注目してみました。

義経は、頼朝の異母兄弟で、母、静御前、幼名「牛若丸」までは私も子供の頃に読んだ本で覚えていますが、様々な伝説が各地で残されている戦術に長けた凄いヒーローとして今でも人気が高い武将です。
因みに、義経が亡くなった日は、1189年6月15日ということで、偶然にも明後日だということと、空海の誕生日が6月15日で、2つの一致点に気がつき驚きました。
さらに何の因縁も無いとは思いますが 私の恩人も同じ6月15日です…(笑)

↓壇ノ浦の戦いの前年、二十六歳で書かれた数少ない若き義経の花押です。

義経の花押
(義経の花押)
源+「經」
左に大きく膨らんだ弧のように書かれ、旁の方は横画を繋げて立て、波のようなデザインです。

王義之字典より「經」 行書体
(王義之字典より「經」 行書体)
※義経の「つね」→「經」は縦糸の意味です。

頼朝の花押よりも、早く書けるということを重視しているようにも思いましたが義経の戦略家としての頭の回転の良さと、勢いのあるパワーを感じました。

つづく

頼朝花押 2022年06月06日

「花押」=(かおう)という言葉はご存じでしょうか?
私は、普段から沢山のお名前を書くのが仕事ですが、整った楷書体以外は、筆耕では殆ど書く事はありませんし、絶対的に読めて、等間隔で全ての人にとって美しいと感じてもらえ 中庸で安心感のある美が筆耕での極意です。
でも、その真逆の美が「花押」のように思います。

その理由は、全く読めないサイン(署名)という事と、主に書体の中でも読むのが難しい草書体を使って名前の漢字2文字などを重ねて2文字を1文字のように見せるなどされた、世の中にたった一つのハイブリットデザインだということです。

※草書体は、中国でも隷書を崩して簡略化された画数が少なく連綿で書くことに適した書体です。
日本では「ひらがな」のもとが草書です。草書をもっと簡略化する事で、誰もが早く書けるようになりました。

源頼朝の花押で分かりやすくしてみましょう。

資料「源頼朝袖判下文」文末に見られる頼朝の花押
(資料「源頼朝袖判下文」にある頼朝の花押)

頼朝の名前の部分「束」と「月」を合体させて創られています。
まずは字典の「束」と「月」の草書に近い字を書き出してみました。

束と書いた画像
月と書いた画像
(束と月のそれぞれ書いた画像)

臨書してみましたが結局筆路が分からず、墨の掠れ具合で判断しました。 
単純に2字が合体されているのではなく、かなりデフォルメされてデザイン化されているのが分かりました。

源頼朝花押臨書
(源頼朝花押臨書)

想像ですが「~月をも束ねる~」という意味で解釈すると、平家を滅ぼし、初代征夷大将軍となった頼朝の精神性がこの花押に込められているのかな?と考えると、「サイン」という表現は相応しくないと感じました。日本人の漢字に情緒を込める気質が独自の漢字文化を作り、その中で花押が誕生したのは納得です。

つづく

2022年05月の漢字エッセイ

白隠 2022年05月23日

白隠慧鶴は、江戸中期の禅僧です。
駿河国浮島(現,静岡県沼津市)に生まれました。
白隠は、全国を行脚しながら、おびただしい数の禅画や墨蹟を残していますが、書画が職業ではなく、臨済宗の名君の祖として 禅宗の教えを説くために書きました。

白隠

11歳の頃に母に連れられ、お寺に説法を聞きに行ったときに、地獄と極楽は表裏一体であるという話を聞き、その教えに対する恐怖が、出家の動機になり、「南無地獄大菩薩」と地獄と極楽を同じ画面に描き残しました。

白隠南無地獄大菩薩
(白隠南無地獄大菩薩)

白隠の字は、禅の書の中でも特徴がはっきりしており、白隠が書いた、という事が一目で分かります。
どこが違うかというと、かなりの肉太線だということと、全ての起筆から収筆まで丸みがあり、相撲文字や、寄席文字とも似ていますね。
さらに紙面の下の方が段々字が詰まっていたりして、子供が書いたような感じもします。

相撲文字
(相撲文字)

大衆文字を取り入れ禅語を書くことで、民衆に白隠の教えが届きやすかったから?なのかなとも考えられます。
だだ、どの作品を見てもウケを狙ってというだけでなく、本人のキャラクターがそのまま表れているような気がしてきます。

今回の「墨蹟」とは? という私なりの結論は、一休さんにしても、白隠さんにしても、高僧の愛嬌を感じ、親しみが滲み出ている書のことのように思いました。

墨蹟 2022年05月16日

白隠

今日は、禅の書をテーマにした勉強会に参加し、書の新たな魅力を知ることが出来ましたので(禅の書)禅林墨蹟の書についてほんの少しまとめてみました。

墨蹟とは、禅宗の高僧が書いた書のことですが、書の中でも書道家が書く「書道」の字と、禅僧が書く「墨蹟」には違いがあります。
「書道」は、伝統の法則、技術を学び、鍛錬により美しさを追求した書が一般的ですが、「墨蹟」は形の美しさではなく、己と向き合い、生きることの根源を修行により悟った人による生気のほとばしりを感じる書だということが言えます。

池大雅筆
(池大雅筆)

※茶席の書とは
日本では、室町時代中頃に、一休宗純(臨済宗大徳寺の僧侶)が弟子に印可状を授け、その弟子が侘び茶を大成した千利休と関わり、その後利休が茶席の床の間では、墨蹟が第一と位置づけました。
そのような流れがあり、今でも床の間は日常の中での神聖な場書であり、掛けられている書の世界感が発露され、観る者との心が一体となり、特別な空気を体感することが出来ます。

一休宗純墨蹟
(一休宗純墨蹟)

※印可状とは
師匠が弟子に対し、修行の過程において重要と思われることがらの全てを伝えたことの証明のこと。

2022年05月09日

尊円法親王
(尊円法親王)

前々回、藤原行成(972年)が世尊流という日本往来の書体を作り上げたという事をご紹介しましたが、もう少し深く調べていくと、御家流の書は行成の平安時代より300年ほど後の鎌倉時代に、尊円法親王(1298年)という能書家(青蓮院第十七世門跡で伏見天皇の第6皇子)が、行成の世尊流を汲んだ書を広めたことで、御家流=尊円流とも呼ばれるようになったそうです。

字典『極』
(尊円法親王の書)

そもそも、御家流は、沢山の人が継承して行く中で生まれた流派の総称だということが言えるため、尊円流ではなく御家流と呼ばせて頂くことにします。

江戸時代に御家流を、一般の公用文字として全国各地の庶民の子供が寺子屋で習っていた事は良く耳にしますが、公用文字にしては、行書、草書での崩し字のようなどちらかと言うと、私たちには芸術的な立派で流麗な古い文字という印象です。
でも、今回遡ってどの時代から誰の書が元になっているかということをちゃんと理解して行くと、今私がまさに鍛錬して習得しようとしている藤原行成の字体だったことを知り、日本人として近年まで庶民の誰もが書いていた身近な書体だったのだなと、あらためて気が付かされました。
今では、時代劇や、資料館などでしか見ることが出来ないため特別な人が書いたように感じますが、江戸時代には、庶民の誰もがこの至難の美しい文字を書いていたと思うと、型は一つでも個性豊かな十人十色の書体で溢れていたことと思います。

寺子屋手本千字文
(寺子屋手本千字文)

今で言うと子供が、スマホを使いこなして何でも出来ることと同じように当たり前だったのかな? と考えることもできますが。。。
筆文字という日常無くてはならないツールだったにも関わらず、あっという間に読める人も書ける人も衰退してしまったことは残念だなと思います。
でも私自身がこれから、御家流の筆の技術を持てるようになれたら、と今後の課題として考えている昨今です。

◆御家流=書道よりも、香道での流儀を指す意味合いが強いようです。
「書道」の流派は、数百、数千もの流派が派生し「流派」という概念では、はっきり分けることが難しくなっています。
武道などと一緒で、「型」があってこその流派なので、書は、流派のしがらみが薄い分、「型」も曖昧になってしまっているのが現状のようです。
ルーツとされている行成先生、さらに遡って王義之先生の字を研究することが一番良い勉強法だという事が言えます。

2022年05月03日

字典『極』
(字典『極』)

先週に引き続きまして受賞作品の解説を、今回は倣書部門「極」についてです。
まず「倣書とは」?から解説いたします。

「倣書」は、もともとある名筆の字をベースに、創作へと移行させることを言います。
本来の古典の字の持つ品格や、時代の空気感を大事にしつつ作品としてのアイキャッチや、線で物語性を持たせ現代にも通じる書として生まれ変わらせることだと思います。

王義之喪乱帖「極」
(王義之喪乱帖「極」)

今回の私の作品は、王義之や、その流れをくんだ日本の三筆=空海、嵯峨天皇、橘逸勢。
三蹟=小野道風、藤原佐理、行成の書体の字形をベースにし、それにアレンジを加えていますがもともとの字形をあまり壊さずに書いています。
使用した道具は、筆は2本の筆を合わせて合筆で書きました。
墨は、古墨を使用し、線の重なった部分が分かる古墨ならではの立体感と、色の複雑さを表現しました。

出口胡蝶受賞作「極」倣書画像
(出口胡蝶受賞作「極」倣書)

今回受賞の一番の評価点は、俯仰法という筆法による筆の円転運動が、成功の鍵となりました。
この俯仰法は、王義之が開発した筆法で、習得する事が難しい至難の技と言えるため、私も相当な枚数を書き、やっとの思いで書いたという段階です。

古代ピラミッドの謎を解くように王義之が現れて以降、1700年も脈々と漢字文化圏で義之の技術を誰もが追い求めてきました。
その究極の書の秘密をもっと知り、これから作品を通して現代に伝えて行けたら良いなというのが私の究極の夢です。

2022年04月の漢字エッセイ

藤原行成 2022年04月24日

藤原行成 菊池容斎画『前賢故実』より
(菊池容斎画『前賢故実』より)

藤原行成(ゆきなり、こうぜい)は972年平安中期の公卿で平安の三蹟の一人です。

◆三蹟とは
平安時代を代表する能書家(小野道風、藤原佐理、藤原行成)
三蹟の時代に、中国風の雄渾な書から、日本人好みの優雅で優しい和洋の書が完成され、現代にも通じています。

藤原行成は24歳の時に世尊寺というお寺の蔵人頭(くろうどかしら)に就任しました。
行成の人柄を語る記述も多く、資性明敏で温厚、義理固く、謹厳な態度などなどが挙げられれ、さらに才女、清少納言との交際も枕草子に描かれているという、容姿も良かった?のではと想像することができますね。
蔵人頭とは、天皇(嵯峨天皇)直属の秘書機関の最高責任者のことを言い、それ以降 行成の流派のことを世尊寺流と言われるようにもなりました。

藤原行成 本能寺切原寸臨書
(出口胡蝶受賞作「藤原行成 本能寺切」原寸臨書)
ちなみに、装丁の生地模様は前週のエッセイで取り上げた正倉院模様を使用しています。

■本能寺切とは
藤原行成の書いた長巻の一部が本能寺に伝わったことから本能寺切と言われています。
本能寺の変で、焼かれずに他の場所へ保管されたのか?など謎です。

小野篁、菅原道真、紀長谷雄などの日本の詩人の名句を撰び行成が書いているため、行成の他の作品と比べても、気合いの入った真骨頂が盛り込まれている作品です。
中国製の文様のある高級紙を用いて書かれており、調度性も高いとされています。

「訓み下し文」
閑居は、誰れ人にか属す、紫宸殿の本の主なり。秋水は、何れの処にか見る。
朱雀院の新しき家なり。智者に非れば、之れを楽しまず。故に

正倉院文様 2022年04月17日

正倉院模様

イスラム天文学は、15世紀には1年が365日周期だということをほぼ正確に計算した最も優れた天文学で、シルクロードの民として天文の知識が無いと砂漠や海の大航路を渡る事は出来ないため天文学が発展したと言われています。
そして、イスラムの占星術も今でも星占いとして受け継がれています。シンドバットの冒険の物語なども船乗りたちの自慢話が基になって作られたと言われています。

正倉院模様

曼荼羅に戻りますが、そう思って見ると、シルクロードは別名「文様の道」でもあり、東の終着点と言われる日本の正倉院に伝わる文様も、葡萄の文様や唐草文様が多く見られ、それはペルシャ文様を意味します。
ペルシャから運ばれたであろうガラスの器も未だに正倉院で昔と同じ輝きを放っています。
そして気がついたことは、正倉院文様は、曼荼羅そのものでは?ということです。
羚羊や、鳥(鳳凰)、神獣、なども様々な動物も織られていて日本に到達するまでに通過して来た国々の文様が入っているため、曼荼羅と正倉院文様は、基は同じなのではないかな、という事が今回分かりました。
これから身近にあるファブリック文様や、着物、帯、スカーフ、タイル、壁紙など注目して観てみると楽しいですね。

曼荼羅 2022年04月10日

空海金剛界、胎蔵界曼荼羅

空海が師の恵果から、密教の正統な後継者としてただ一人選ばれ授かったのが胎蔵界曼荼羅と、金剛界曼荼羅です。
そこで曼荼羅はどこから生まれたのか?ということで探ってみました。
曼荼羅は、密教の発祥の地インドで誕生しましたが、今は密教が滅んでしまったためインドには曼荼羅は残っていないそうですが、その流れを受け継いだチベット、ブータンに超一級の曼荼羅が多く残っています。
なので、空海が持ち帰って来た曼荼羅は、インドから中国唐に入って来た正統なもので、空海が継承後に日本式に変化させ、儀式の時に使用していたようです。

ブータン砂曼荼羅
(ブータン砂曼荼羅)

前回イスラム文化をテーマに調べていた事を含め考えてみると、密教発祥のインドから日本に継承されたので、インド発祥とされていますがもともとは、広い意味でもっと西のイスラム文化から東に繫がっているのでは?と考えられます。

それは、曼荼羅は左右対称で、正方形の中に円が沢山あり幾何学的な形の中に唐草文様などがびっしり描かれているという点で、あのブルーモスクのタイル文様と共通しています。
イスラムでは、人物や動物を象徴することは無いため、植物などの文様で「青」が基調です。
しかしインドでは仏菩薩、神々、餓鬼が描かれるようになり赤、緑、青、黄色の配色で表現されそれぞれの信仰上の違いで配色も変わっているのが分かります。

キリスト教会バラ曼荼羅
(キリスト教会バラ曼荼羅)

そして曼荼羅図鑑をめくって行くと、イスラム、インド、チベット、ブータン、中国、日本だけではなく、キリスト教文化圏、さらには自然界のあらゆる形が曼荼羅として無限に存在する事が分かりました。

やはり、宗教によって変化しつつも、宇宙を意味している曼荼羅の発祥は、天文学、占星術を生み出したイスラム文化から?だったように思えて来ました。

つづく

千字文2 2022年04月03日

千字文の文字を揮毫したのは、智永という能書家で書聖、王義之の家の子孫、継承者です。
1000文字を楷書と草書を並べて書かれているため、真草千字文とも言われています。
王義之より、250年あとに生きた人物なので、8代目?くらいの子孫になるのではないかと思います。
そして、その千字文は、王義之が書いた晋唐小楷という 小さい楷書を手本として智永が書きました。
智永も、王義之の書風を継承する家で育っているので当然、生まれた時から親しんで身に付けていた楷書だったと考えると、筆法や、書体も癖が無いニュートラルで子供でも分かりやすく学べるお手本ということになります。

日本でも、奈良時代から近代の明治、昭和~になってからの著名な書家も皆この千字文は、必ず通る道であり基本となっているのだなと、考えると一言で、お手本というだけではなく、宇宙観や道徳感も含まれているとは本当に書道(中国では書法)は奥が深いなぁ、と思いました。

私も過去に、他の業界の人からこんな事を言われました。
書道を勉強している人は、字を書く事だけが優先で、自分が書いた作品の意味も分からず、師匠のお手本を模写しているだけでは?と。
でもその通りかも知れません。
意味を理解した上で書き、解説できるようになるには、やはり書の歴史を知る事が大事かなと、あらためて今回、1500年前の千字文から教わりました。

2022年03月の漢字エッセイ

千字文1 2022年03月27日

天地玄黃  宇宙洪荒
日月盈昃  辰宿列張
寒來暑往  秋收冬藏
(冒頭6首)

遣唐使が持ち帰って来たのでは?と考えている「千字文」について、書道を学ぶ上て縦糸として重要なものであるため今回取り上げてみたいと思います。
西暦500年頃の中国(唐時代より、100年くらい前の時代、北魏後期)で、梁の武帝が皇子たちに字の教育のためにお手本となるものが欲しい考え、漢詩が得意な文章家の役人である周興嗣に作らせました。(一晩で作らせたことで、髪の毛が真っ白になったという逸話があります。)

4字対句が250首で計1000文字の漢詩が連なる事から千字文と言われています。

文の内容は、限られた字数のなかで最大限の知識や漢民族の伝統文化を継承させるよう工夫されており、道教の哲学である森羅万象(宇宙観)を網羅しながら 国を治めるための儒教の倫理教育のも兼ねている内容となっています。

つづく

遣唐使 2022年03月20日

遣唐使

阿倍仲麻呂と並んで、唐で名を残した日本人がもう一人、吉備真備(きびのまきび)という公家、政治家です。(※吉備団子の吉備(岡山県)出身)
真備は今から1300年前の奈良時代716~717年、玄昉、阿倍仲麻呂らと一緒に日本から唐へ旅立ちました。
そして、約20年近く唐で過ごした真備ですが、どうやってその間、生活費を稼いでいたかというと意外なものでした。

当時の長安では、各国からの留学生の生活費は、皇帝から絹地で支給されていましたが、遣唐使が必要とした書物に費用がかさみ、あっという間に日本から持参したお金も、皇帝からの生活費も底をついてしまいました。
因みに、当時は印刷された本を買うのではなく、お金を払って自分で書き写していたとの事なので、大変な作業ですが、書き写す事で知識となり、文字を書くという技術も身についたことと思います。
現代の自分に置き換えると、ネットで購入し、それで満足して、ろくに読まないで置いてある、という事が愚かに思えてきます…。

吉備真備が書いた墓誌
(吉備真備が書いた墓誌)

そこで真備は、唐の役人や富裕層の間で流行っていた墓誌の文字を勉強し、筆耕?のアルバイトを始めます。
もともと字が得意だった事が身を助ける事になり、仕事の依頼が殺到したそうです。
そしてその事で、相当な地位を獲得し、唐の貴族や知識人のサロンに出入りするようになり、シルクロード=ブックロードから集まった世界中の本に触れ、手に入れる事が出来たそうです。

吉備真備資料 新聞切り抜き

墓誌の字を書ける人が唐でも稀だったそうで、かなり重宝されたのは意外でしたが、私の上京して来た当初を振り返り、筆耕で仕事の依頼が来るようになったプロセスとも似ているな~と、おこがましくも、次元が違い過ぎますが真備が大先輩のように思えてきました。
真備は字が書けただけでなく、言語も巧みで、政治家としても優秀だったため玄宗皇帝からも気に入られていたようです。
しかし惜しまれつつも、帰国が叶い20年の間に集めた本と、楽器などを日本に沢山持ち帰り日本の右大臣にまで異例の出世を果たし、日本文化に大きな影響を及ぼしました。

真備や他の遣唐使が持ち帰って来た沢山の本の中に、あの空海が子供の頃にお手本にしたとされる千字文があったのだろうと思うと、空海に唐への憧れを抱かせるきっかけになったかも知れないと想像を膨らませました。

つづく

阿倍仲麻呂 2022年03月12日

阿倍仲麻呂『前賢故実』より
(阿倍仲麻呂『前賢故実』より 菊池容斎画©Public Domain)

玄宗皇帝が若くて美しい楊貴妃に夢中になり、政治が脆弱になり宮廷が腐敗していた事で隙を突かれてしまいます。
唐の軍人 安禄山(イラン系ソグド人)によって「安史の乱」が起き、玄宗皇帝は、唐から追われ、ウィグル人に助けられました。 そして一瞬、安禄山に唐を奪われてしまいましたが安禄山もその後滅ぼされました。 そんな混乱の中で阿倍仲麻呂は、日本に一時帰国を試みましたが、途中で嵐に合い、脱出が叶わないまま唐へ引き返しました。

そして日本に帰る事をずっと願っていた仲麻呂が、故郷を思い詠んだ歌です。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」

(※三笠山は、奈良県奈良市の春日大社の裏手にある山です)

仲麻呂が空海と違う点は、役人として秀才だったことだと思いますが、科挙の試験を受けた時点で、唐での役人の道を自ら選んでしまったのではないでしょうか。
空海は、仲麻呂の事を知っていたと思いますが、仲麻呂を反面教師としすぐに日本に帰って密教を広めたいんだ!という気持ちがあったからこそ、2年足らずで帰国したのでは?という思いがいたします。

つづく

楊貴妃 2022年03月05日

東西交流の3つの道

空海は、約1200年前に遣唐使として訪れたことを考えると、すでに東西の交易が盛んに行われていましたので、唐の都長安で西域の文化人や、建築、美術、工芸品なども目にしていたはずです。
そして、唐の娯楽では胡旋舞(こせんぶ)と言って、サマルカンド地方のシルクロードの行商人であったソグド人の故郷の踊りが流行し、楊貴妃も得意としていたそうです。

シルクロード風景

因みに、空海が805年に唐に到着したことから計算すると、楊貴妃が玄宗皇帝の寵姫になったのが750年頃のため、50年くらい空海が後になり、楊貴妃と空海の直接の接点は残念ながら無かったと思いますが、楊貴妃のような美女が長安には沢山いたのではないかと思います。

胡旋舞

因みに、空海より前に遣唐使で唐へ渡っていた阿倍仲麻呂は中国の中でも最難関とされる科挙の試験に合格し、玄宗皇帝の側近となり日本へ帰る事が許されず717年~770年(死客)までの53年もの月日を唐で過ごしました。
しかも、阿倍仲麻呂と楊貴妃の恋のロマンスの話があることも知り驚きました。

つづく

空海2 2022年03月01日

中国地図
(空海の旅した道筋)

今回は、空海が目にしたであろうイスラム文化を探ってみました。

空海が辿り着いた福州よりもっと南にある中国の最南端の海南島は、1000年以上前から海のシルクロードとして中国大陸の入口でした。 アラブからの大きな貿易船が必ず経由するため、多くのイスラム人が定住し暮らしていました。今でも、メッカへの祈りが込められたイスラム書道文字の掛け軸が家の中にも掛けられています。

イスラム書道の掛け軸
(イスラム書道の掛け軸)

そして次の港、広東省広州市もイスラム系の人々が多く、中国式のイスラム風建築で異国情緒のある街です。 沢山の文化が混ざり合い、特に「食は広州にあり」と言われるほど「食」への情熱が強くエネルギッシュな都市だそうです。
そして次に空海が最初に辿り着いた福州、そして揚州も、イスラムの商人が沢山交易で滞在し、居住していました。
空海が滞在し、豆腐を食べた山奥の村もアラビア様式の建造物が建ち並ぶ村でした。

イスラム教徒のお祈り

本当に、知れば知るほど中国には日本よりも、かなり早くから西洋文化が流れている事に気がつきました。
そして空海が、長安への旅の途中でそれを始めて目にし、何を感じていたかを想像するだけでわくわくしますね。

つづく

2022年02月の漢字エッセイ

空海1 2022年02月20日

今回は、真言密教の開祖である弘法大師空海の遣唐使としての道中のお話です。
西暦804年(平安時代初期)国を立て直したいという意志を持った若き僧侶、空海31歳が最先端の仏教を学びに遣唐使船で唐へ向かいました。
そして師となる唐の国師、恵果に才能を気に入られ、中国の1000人の僧侶の中から、密教の正統な継承者としてただ一人選ばれました。
それもたった半年の修行期間でとは驚きです。

ただ、そこまで辿り着くまでの旅は大変過酷な道でした。

遣唐使船が嵐に見舞われ、34日間漂流し、予定より遠く400キロも南に辿りつきました。
最初に辿り着いたのが福建省沿岸部の蛇が沢山いる湿地帯で、8月上旬の夏の季節で気温は30度を超えていたと言われています。
そこは漢民族の支配がまだ及んでいない未開の地で、空海が現地の人々に日本から来た遣唐使だと告げても怪しがられるだけでした。
そこで、地域の地方長官に得意の手紙で、中国の漢文を交えた華麗な文章により、唐に行きたいという意志を書き示し渡したところ、中国でもこれだけの詩を詠む者はいないと驚き、唐から使者を呼び、約1ヶ月で迎えに来させました。

そしていよいよ唐の都へ出発します。
険しい山が多く、川を渡ることになりましたが蛇が沢山いる荒々しい過酷で危険な川でした。
途中で滞在した、廿八都という村は、3つの省の境目にある関所となる場所で、空海が食べた豆腐が後に、高野豆腐となったと言われています。
桃源郷のような山間の美しい村での滞在のあと、また江郎山の断崖絶壁を超えるという試練もありましたが、空海が青年の頃から修験者と一緒に山を駆け回っていたことで鍛えられた 健脚が役に立ち、無事乗り越える事が出来ました。

江郎山)
(江郎山)

そうして再び、山から川に戻り杭州の冨春江という村に滞在しました。
そこでも水上で暮らす独特の文化を持っていることで漢民族から差別され、戸籍も無い人々の逞しく生きる暮らしを目にしました。

その後、ようやく唐へと続く運河で船出し、河に沿って唐へたどり着く事が出来ました。

空海が、遣唐使船の難破により遠回りをしたからこそ目にした川で暮らす水上生活者の生活や、山に追われ密かに暮らす民族などの生き方は、仏教とは無縁の世界でしたが、空海にとって深く心に刻まれた出来事だったと思います。
その出会いと、唐で学んだ真言密教とが交じり合ったことで自然界の全ての人、物が幸せに生きられる世の中にしたいという後の日本での救済活動にも役立ったのではないかと思えて来ます。
そして、たった2年の旅でしたが、空海の才能を持ってこそ、唐への道が開かれたのだと感じました。
次回は筆の達人でもあった空海は、書にはどのような影響をもたらしたか調べて行きたいと思います。

つづく

アラビア商人 2022年02月13日

先週に引き続き、イスラーム文化の世界交易によって、世界に文化が広がったという流れが段々見えて来ましたのでさらに調べてみました。
2世紀頃からペルシャ湾~インド洋交易=海のシルクロードが開通され、アラビア(イスラム)商人などによる大航海時代が始まり1500年間存在していました。
大型船だと逆風でも進め、最大で一隻、ラクダ600頭を運ぶ事が可能だったほどでした。
エジプト(カイロ)が国際的に交易の拠点となり、東南アジア、中国にも絹織物、塩、胡椒、砂糖、陶磁器、香辛料、コーヒー、お茶、乳香、木材など、沢山のものがイスラム商人によって伝来されました。

中国のイスラーム
(中国のイスラーム)

4年前に参加した中国、揚州への旅で、それが分かる光景をいたるところで目にしました。
まさにイスラム文化が融合した東洋のベニスと言われている街だけあり、中華+オリエンタルな印象で美しかったですが、見るべき所は他にあり、イスラム商人が塩の交易で栄華を極め、富豪を成した人々がパトロンとなり、(清時代)文人書家一派の、揚州八怪(※)たちの個性あふれる書や画が誕生したという点で、その背景がつながり、とても納得できました。
(※鄭板橋、金農、などが代表的ですが、8人以上おりますが八怪と呼ばれています。)

中国清七宝香炉
(中国清七宝香炉)

さらにそのころ乾隆帝の時代(1711~1799年)は中国が最高に栄華を極めた時代でもあり、乾隆帝自らも、書や美術を愛する芸術家でした。
今でも、中国製の美術品には、乾隆帝の名前が入っている物が多く、乾隆帝が認めた物であるというブランド品として沢山出回っています。

大陸書道 2022年02月07日

前回記事の回教展からのつづきです。

アラビア書道画像
(アラビア書道 参考画像)

イスラム文化での書道芸術について考えてみました。
イスラム教の書は、アラビア書道と言われ、イスラームの美術品にも文字がびっしり刻まれていたり、モスクのタイルと一緒に掲げられていてデザイン装飾として見て、とても美しい文字です。
意味としては、殆どがイスラム教の聖典(コーラン)が書かれています。
今のイラクの首都バクダッド(イスラーム文化の中心都市)で王朝御用書家を養成し、世代が変わっても、一点一画が同じように書けるような技法で作られ、それによって文字が変わらずに継承されて来ました。
日本でも奈良時代に、厳しい試験を受けた写経生が写経所で寝泊まりし、朝から晩まで写経していた事と同じようなシステムだと思われます。
因みに日本で「アラビア書道」と呼んでいるのは、紙に墨で書いているという点が重なるからだそうですが、アラビア書道は葦や竹ペンを使用しており、筆先は毛筆のように、墨を沢山含まなく弾力も無いため、多様な線は出ません。
もともと一般庶民の文字では無いので個性は殆ど無いですが、代りに整然とした秩序があり、その美しさに心惹かれます。

モンゴル書道家の作品集
(モンゴル書道家の作品集より)

そして、もっとアラビア書道に近いのがモンゴル書道です。
モンゴル文字は、アラビア文字を縦書きにした文字だそうです。
同じ大陸なので、西から東に文字が普及していったと考えられます。
モンゴルでは遊牧生活のため、もともと文字文化は発展していなかったイメージでしたが、昨今になり、6世紀ころ書かれたモンゴル文字が発見されたそうです。
日本の飛鳥、奈良時代と同じ時期だということになります。
なぜモンゴル文字になって、横ではなく縦書きになったかという理由は分かりませんが、中国で4世紀に紙が誕生した事からモンゴルでも紙が普及し、縦書きになったのかなとも想像できます。
モンゴル書家の書を見ていると、紙面全体を使って大きなベクトルで書かれているため遊牧民の行動範囲の広さから来ているのでは?と文字心理学の視点で見て感じました。