KANJI ESSAY

~故きを温ねて新しきを知る~ 胡蝶の漢字エッセイ「温故知新」

漢字や書にまつわるエッセイを毎週更新中

2022年05月の漢字エッセイ

墨蹟 2022年05月16日

白隠

今日は、禅の書をテーマにした勉強会に参加し、書の新たな魅力を知ることが出来ましたので(禅の書)禅林墨蹟の書についてほんの少しまとめてみました。

墨蹟とは、禅宗の高僧が書いた書のことですが、書の中でも書道家が書く「書道」の字と、禅僧が書く「墨蹟」には違いがあります。
「書道」は、伝統の法則、技術を学び、鍛錬により美しさを追求した書が一般的ですが、「墨蹟」は形の美しさではなく、己と向き合い、生きることの根源を修行により悟った人による生気のほとばしりを感じる書だということが言えます。

池大雅筆
(池大雅筆)

※茶席の書とは
日本では、室町時代中頃に、一休宗純(臨済宗大徳寺の僧侶)が弟子に印可状を授け、その弟子が侘び茶を大成した千利休と関わり、その後利休が茶席の床の間では、墨蹟が第一と位置づけました。
そのような流れがあり、今でも床の間は日常の中での神聖な場書であり、掛けられている書の世界感が発露され、観る者との心が一体となり、特別な空気を体感することが出来ます。

一休宗純墨蹟
(一休宗純墨蹟)

※印可状とは
師匠が弟子に対し、修行の過程において重要と思われることがらの全てを伝えたことの証明のこと。

2022年05月09日

尊円法親王
(尊円法親王)

前々回、藤原行成(972年)が世尊流という日本往来の書体を作り上げたという事をご紹介しましたが、もう少し深く調べていくと、御家流の書は行成の平安時代より300年ほど後の鎌倉時代に、尊円法親王(1298年)という能書家(青蓮院第十七世門跡で伏見天皇の第6皇子)が、行成の世尊流を汲んだ書を広めたことで、御家流=尊円流とも呼ばれるようになったそうです。

字典『極』
(尊円法親王の書)

そもそも、御家流は、沢山の人が継承して行く中で生まれた流派の総称だということが言えるため、尊円流ではなく御家流と呼ばせて頂くことにします。

江戸時代に御家流を、一般の公用文字として全国各地の庶民の子供が寺子屋で習っていた事は良く耳にしますが、公用文字にしては、行書、草書での崩し字のようなどちらかと言うと、私たちには芸術的な立派で流麗な古い文字という印象です。
でも、今回遡ってどの時代から誰の書が元になっているかということをちゃんと理解して行くと、今私がまさに鍛錬して習得しようとしている藤原行成の字体だったことを知り、日本人として近年まで庶民の誰もが書いていた身近な書体だったのだなと、あらためて気が付かされました。
今では、時代劇や、資料館などでしか見ることが出来ないため特別な人が書いたように感じますが、江戸時代には、庶民の誰もがこの至難の美しい文字を書いていたと思うと、型は一つでも個性豊かな十人十色の書体で溢れていたことと思います。

寺子屋手本千字文
(寺子屋手本千字文)

今で言うと子供が、スマホを使いこなして何でも出来ることと同じように当たり前だったのかな? と考えることもできますが。。。
筆文字という日常無くてはならないツールだったにも関わらず、あっという間に読める人も書ける人も衰退してしまったことは残念だなと思います。
でも私自身がこれから、御家流の筆の技術を持てるようになれたら、と今後の課題として考えている昨今です。

◆御家流=書道よりも、香道での流儀を指す意味合いが強いようです。
「書道」の流派は、数百、数千もの流派が派生し「流派」という概念では、はっきり分けることが難しくなっています。
武道などと一緒で、「型」があってこその流派なので、書は、流派のしがらみが薄い分、「型」も曖昧になってしまっているのが現状のようです。
ルーツとされている行成先生、さらに遡って王義之先生の字を研究することが一番良い勉強法だという事が言えます。

2022年05月03日

字典『極』
(字典『極』)

先週に引き続きまして受賞作品の解説を、今回は倣書部門「極」についてです。
まず「倣書とは」?から解説いたします。

「倣書」は、もともとある名筆の字をベースに、創作へと移行させることを言います。
本来の古典の字の持つ品格や、時代の空気感を大事にしつつ作品としてのアイキャッチや、線で物語性を持たせ現代にも通じる書として生まれ変わらせることだと思います。

王義之喪乱帖「極」
(王義之喪乱帖「極」)

今回の私の作品は、王義之や、その流れをくんだ日本の三筆=空海、嵯峨天皇、橘逸勢。
三蹟=小野道風、藤原佐理、行成の書体の字形をベースにし、それにアレンジを加えていますがもともとの字形をあまり壊さずに書いています。
使用した道具は、筆は2本の筆を合わせて合筆で書きました。
墨は、古墨を使用し、線の重なった部分が分かる古墨ならではの立体感と、色の複雑さを表現しました。

出口胡蝶受賞作「極」倣書画像
(出口胡蝶受賞作「極」倣書)

今回受賞の一番の評価点は、俯仰法という筆法による筆の円転運動が、成功の鍵となりました。
この俯仰法は、王義之が開発した筆法で、習得する事が難しい至難の技と言えるため、私も相当な枚数を書き、やっとの思いで書いたという段階です。

古代ピラミッドの謎を解くように王義之が現れて以降、1700年も脈々と漢字文化圏で義之の技術を誰もが追い求めてきました。
その究極の書の秘密をもっと知り、これから作品を通して現代に伝えて行けたら良いなというのが私の究極の夢です。

2022年04月の漢字エッセイ

藤原行成 2022年04月24日

藤原行成 菊池容斎画『前賢故実』より
(菊池容斎画『前賢故実』より)

藤原行成(ゆきなり、こうぜい)は972年平安中期の公卿で平安の三蹟の一人です。

◆三蹟とは
平安時代を代表する能書家(小野道風、藤原佐理、藤原行成)
三蹟の時代に、中国風の雄渾な書から、日本人好みの優雅で優しい和洋の書が完成され、現代にも通じています。

藤原行成は24歳の時に世尊寺というお寺の蔵人頭(くろうどかしら)に就任しました。
行成の人柄を語る記述も多く、資性明敏で温厚、義理固く、謹厳な態度などなどが挙げられれ、さらに才女、清少納言との交際も枕草子に描かれているという、容姿も良かった?のではと想像することができますね。
蔵人頭とは、天皇(嵯峨天皇)直属の秘書機関の最高責任者のことを言い、それ以降 行成の流派のことを世尊寺流と言われるようにもなりました。

藤原行成 本能寺切原寸臨書
(出口胡蝶受賞作「藤原行成 本能寺切」原寸臨書)
ちなみに、装丁の生地模様は前週のエッセイで取り上げた正倉院模様を使用しています。

■本能寺切とは
藤原行成の書いた長巻の一部が本能寺に伝わったことから本能寺切と言われています。
本能寺の変で、焼かれずに他の場所へ保管されたのか?など謎です。

小野篁、菅原道真、紀長谷雄などの日本の詩人の名句を撰び行成が書いているため、行成の他の作品と比べても、気合いの入った真骨頂が盛り込まれている作品です。
中国製の文様のある高級紙を用いて書かれており、調度性も高いとされています。

「訓み下し文」
閑居は、誰れ人にか属す、紫宸殿の本の主なり。秋水は、何れの処にか見る。
朱雀院の新しき家なり。智者に非れば、之れを楽しまず。故に

正倉院文様 2022年04月17日

正倉院模様

イスラム天文学は、15世紀には1年が365日周期だということをほぼ正確に計算した最も優れた天文学で、シルクロードの民として天文の知識が無いと砂漠や海の大航路を渡る事は出来ないため天文学が発展したと言われています。
そして、イスラムの占星術も今でも星占いとして受け継がれています。シンドバットの冒険の物語なども船乗りたちの自慢話が基になって作られたと言われています。

正倉院模様

曼荼羅に戻りますが、そう思って見ると、シルクロードは別名「文様の道」でもあり、東の終着点と言われる日本の正倉院に伝わる文様も、葡萄の文様や唐草文様が多く見られ、それはペルシャ文様を意味します。
ペルシャから運ばれたであろうガラスの器も未だに正倉院で昔と同じ輝きを放っています。
そして気がついたことは、正倉院文様は、曼荼羅そのものでは?ということです。
羚羊や、鳥(鳳凰)、神獣、なども様々な動物も織られていて日本に到達するまでに通過して来た国々の文様が入っているため、曼荼羅と正倉院文様は、基は同じなのではないかな、という事が今回分かりました。
これから身近にあるファブリック文様や、着物、帯、スカーフ、タイル、壁紙など注目して観てみると楽しいですね。

曼荼羅 2022年04月10日

空海金剛界、胎蔵界曼荼羅

空海が師の恵果から、密教の正統な後継者としてただ一人選ばれ授かったのが胎蔵界曼荼羅と、金剛界曼荼羅です。
そこで曼荼羅はどこから生まれたのか?ということで探ってみました。
曼荼羅は、密教の発祥の地インドで誕生しましたが、今は密教が滅んでしまったためインドには曼荼羅は残っていないそうですが、その流れを受け継いだチベット、ブータンに超一級の曼荼羅が多く残っています。
なので、空海が持ち帰って来た曼荼羅は、インドから中国唐に入って来た正統なもので、空海が継承後に日本式に変化させ、儀式の時に使用していたようです。

ブータン砂曼荼羅
(ブータン砂曼荼羅)

前回イスラム文化をテーマに調べていた事を含め考えてみると、密教発祥のインドから日本に継承されたので、インド発祥とされていますがもともとは、広い意味でもっと西のイスラム文化から東に繫がっているのでは?と考えられます。

それは、曼荼羅は左右対称で、正方形の中に円が沢山あり幾何学的な形の中に唐草文様などがびっしり描かれているという点で、あのブルーモスクのタイル文様と共通しています。
イスラムでは、人物や動物を象徴することは無いため、植物などの文様で「青」が基調です。
しかしインドでは仏菩薩、神々、餓鬼が描かれるようになり赤、緑、青、黄色の配色で表現されそれぞれの信仰上の違いで配色も変わっているのが分かります。

キリスト教会バラ曼荼羅
(キリスト教会バラ曼荼羅)

そして曼荼羅図鑑をめくって行くと、イスラム、インド、チベット、ブータン、中国、日本だけではなく、キリスト教文化圏、さらには自然界のあらゆる形が曼荼羅として無限に存在する事が分かりました。

やはり、宗教によって変化しつつも、宇宙を意味している曼荼羅の発祥は、天文学、占星術を生み出したイスラム文化から?だったように思えて来ました。

つづく

千字文2 2022年04月03日

千字文の文字を揮毫したのは、智永という能書家で書聖、王義之の家の子孫、継承者です。
1000文字を楷書と草書を並べて書かれているため、真草千字文とも言われています。
王義之より、250年あとに生きた人物なので、8代目?くらいの子孫になるのではないかと思います。
そして、その千字文は、王義之が書いた晋唐小楷という 小さい楷書を手本として智永が書きました。
智永も、王義之の書風を継承する家で育っているので当然、生まれた時から親しんで身に付けていた楷書だったと考えると、筆法や、書体も癖が無いニュートラルで子供でも分かりやすく学べるお手本ということになります。

日本でも、奈良時代から近代の明治、昭和~になってからの著名な書家も皆この千字文は、必ず通る道であり基本となっているのだなと、考えると一言で、お手本というだけではなく、宇宙観や道徳感も含まれているとは本当に書道(中国では書法)は奥が深いなぁ、と思いました。

私も過去に、他の業界の人からこんな事を言われました。
書道を勉強している人は、字を書く事だけが優先で、自分が書いた作品の意味も分からず、師匠のお手本を模写しているだけでは?と。
でもその通りかも知れません。
意味を理解した上で書き、解説できるようになるには、やはり書の歴史を知る事が大事かなと、あらためて今回、1500年前の千字文から教わりました。

2022年03月の漢字エッセイ

千字文1 2022年03月27日

天地玄黃  宇宙洪荒
日月盈昃  辰宿列張
寒來暑往  秋收冬藏
(冒頭6首)

遣唐使が持ち帰って来たのでは?と考えている「千字文」について、書道を学ぶ上て縦糸として重要なものであるため今回取り上げてみたいと思います。
西暦500年頃の中国(唐時代より、100年くらい前の時代、北魏後期)で、梁の武帝が皇子たちに字の教育のためにお手本となるものが欲しい考え、漢詩が得意な文章家の役人である周興嗣に作らせました。(一晩で作らせたことで、髪の毛が真っ白になったという逸話があります。)

4字対句が250首で計1000文字の漢詩が連なる事から千字文と言われています。

文の内容は、限られた字数のなかで最大限の知識や漢民族の伝統文化を継承させるよう工夫されており、道教の哲学である森羅万象(宇宙観)を網羅しながら 国を治めるための儒教の倫理教育のも兼ねている内容となっています。

つづく

遣唐使 2022年03月20日

遣唐使

阿倍仲麻呂と並んで、唐で名を残した日本人がもう一人、吉備真備(きびのまきび)という公家、政治家です。(※吉備団子の吉備(岡山県)出身)
真備は今から1300年前の奈良時代716~717年、玄昉、阿倍仲麻呂らと一緒に日本から唐へ旅立ちました。
そして、約20年近く唐で過ごした真備ですが、どうやってその間、生活費を稼いでいたかというと意外なものでした。

当時の長安では、各国からの留学生の生活費は、皇帝から絹地で支給されていましたが、遣唐使が必要とした書物に費用がかさみ、あっという間に日本から持参したお金も、皇帝からの生活費も底をついてしまいました。
因みに、当時は印刷された本を買うのではなく、お金を払って自分で書き写していたとの事なので、大変な作業ですが、書き写す事で知識となり、文字を書くという技術も身についたことと思います。
現代の自分に置き換えると、ネットで購入し、それで満足して、ろくに読まないで置いてある、という事が愚かに思えてきます…。

吉備真備が書いた墓誌
(吉備真備が書いた墓誌)

そこで真備は、唐の役人や富裕層の間で流行っていた墓誌の文字を勉強し、筆耕?のアルバイトを始めます。
もともと字が得意だった事が身を助ける事になり、仕事の依頼が殺到したそうです。
そしてその事で、相当な地位を獲得し、唐の貴族や知識人のサロンに出入りするようになり、シルクロード=ブックロードから集まった世界中の本に触れ、手に入れる事が出来たそうです。

吉備真備資料 新聞切り抜き

墓誌の字を書ける人が唐でも稀だったそうで、かなり重宝されたのは意外でしたが、私の上京して来た当初を振り返り、筆耕で仕事の依頼が来るようになったプロセスとも似ているな~と、おこがましくも、次元が違い過ぎますが真備が大先輩のように思えてきました。
真備は字が書けただけでなく、言語も巧みで、政治家としても優秀だったため玄宗皇帝からも気に入られていたようです。
しかし惜しまれつつも、帰国が叶い20年の間に集めた本と、楽器などを日本に沢山持ち帰り日本の右大臣にまで異例の出世を果たし、日本文化に大きな影響を及ぼしました。

真備や他の遣唐使が持ち帰って来た沢山の本の中に、あの空海が子供の頃にお手本にしたとされる千字文があったのだろうと思うと、空海に唐への憧れを抱かせるきっかけになったかも知れないと想像を膨らませました。

つづく

阿倍仲麻呂 2022年03月12日

阿倍仲麻呂『前賢故実』より
(阿倍仲麻呂『前賢故実』より 菊池容斎画©Public Domain)

玄宗皇帝が若くて美しい楊貴妃に夢中になり、政治が脆弱になり宮廷が腐敗していた事で隙を突かれてしまいます。
唐の軍人 安禄山(イラン系ソグド人)によって「安史の乱」が起き、玄宗皇帝は、唐から追われ、ウィグル人に助けられました。 そして一瞬、安禄山に唐を奪われてしまいましたが安禄山もその後滅ぼされました。 そんな混乱の中で阿倍仲麻呂は、日本に一時帰国を試みましたが、途中で嵐に合い、脱出が叶わないまま唐へ引き返しました。

そして日本に帰る事をずっと願っていた仲麻呂が、故郷を思い詠んだ歌です。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」

(※三笠山は、奈良県奈良市の春日大社の裏手にある山です)

仲麻呂が空海と違う点は、役人として秀才だったことだと思いますが、科挙の試験を受けた時点で、唐での役人の道を自ら選んでしまったのではないでしょうか。
空海は、仲麻呂の事を知っていたと思いますが、仲麻呂を反面教師としすぐに日本に帰って密教を広めたいんだ!という気持ちがあったからこそ、2年足らずで帰国したのでは?という思いがいたします。

つづく

楊貴妃 2022年03月05日

東西交流の3つの道

空海は、約1200年前に遣唐使として訪れたことを考えると、すでに東西の交易が盛んに行われていましたので、唐の都長安で西域の文化人や、建築、美術、工芸品なども目にしていたはずです。
そして、唐の娯楽では胡旋舞(こせんぶ)と言って、サマルカンド地方のシルクロードの行商人であったソグド人の故郷の踊りが流行し、楊貴妃も得意としていたそうです。

シルクロード風景

因みに、空海が805年に唐に到着したことから計算すると、楊貴妃が玄宗皇帝の寵姫になったのが750年頃のため、50年くらい空海が後になり、楊貴妃と空海の直接の接点は残念ながら無かったと思いますが、楊貴妃のような美女が長安には沢山いたのではないかと思います。

胡旋舞

因みに、空海より前に遣唐使で唐へ渡っていた阿倍仲麻呂は中国の中でも最難関とされる科挙の試験に合格し、玄宗皇帝の側近となり日本へ帰る事が許されず717年~770年(死客)までの53年もの月日を唐で過ごしました。
しかも、阿倍仲麻呂と楊貴妃の恋のロマンスの話があることも知り驚きました。

つづく

空海2 2022年03月01日

中国地図
(空海の旅した道筋)

今回は、空海が目にしたであろうイスラム文化を探ってみました。

空海が辿り着いた福州よりもっと南にある中国の最南端の海南島は、1000年以上前から海のシルクロードとして中国大陸の入口でした。 アラブからの大きな貿易船が必ず経由するため、多くのイスラム人が定住し暮らしていました。今でも、メッカへの祈りが込められたイスラム書道文字の掛け軸が家の中にも掛けられています。

イスラム書道の掛け軸
(イスラム書道の掛け軸)

そして次の港、広東省広州市もイスラム系の人々が多く、中国式のイスラム風建築で異国情緒のある街です。 沢山の文化が混ざり合い、特に「食は広州にあり」と言われるほど「食」への情熱が強くエネルギッシュな都市だそうです。
そして次に空海が最初に辿り着いた福州、そして揚州も、イスラムの商人が沢山交易で滞在し、居住していました。
空海が滞在し、豆腐を食べた山奥の村もアラビア様式の建造物が建ち並ぶ村でした。

イスラム教徒のお祈り

本当に、知れば知るほど中国には日本よりも、かなり早くから西洋文化が流れている事に気がつきました。
そして空海が、長安への旅の途中でそれを始めて目にし、何を感じていたかを想像するだけでわくわくしますね。

つづく

2022年02月の漢字エッセイ

空海1 2022年02月20日

今回は、真言密教の開祖である弘法大師空海の遣唐使としての道中のお話です。
西暦804年(平安時代初期)国を立て直したいという意志を持った若き僧侶、空海31歳が最先端の仏教を学びに遣唐使船で唐へ向かいました。
そして師となる唐の国師、恵果に才能を気に入られ、中国の1000人の僧侶の中から、密教の正統な継承者としてただ一人選ばれました。
それもたった半年の修行期間でとは驚きです。

ただ、そこまで辿り着くまでの旅は大変過酷な道でした。

遣唐使船が嵐に見舞われ、34日間漂流し、予定より遠く400キロも南に辿りつきました。
最初に辿り着いたのが福建省沿岸部の蛇が沢山いる湿地帯で、8月上旬の夏の季節で気温は30度を超えていたと言われています。
そこは漢民族の支配がまだ及んでいない未開の地で、空海が現地の人々に日本から来た遣唐使だと告げても怪しがられるだけでした。
そこで、地域の地方長官に得意の手紙で、中国の漢文を交えた華麗な文章により、唐に行きたいという意志を書き示し渡したところ、中国でもこれだけの詩を詠む者はいないと驚き、唐から使者を呼び、約1ヶ月で迎えに来させました。

そしていよいよ唐の都へ出発します。
険しい山が多く、川を渡ることになりましたが蛇が沢山いる荒々しい過酷で危険な川でした。
途中で滞在した、廿八都という村は、3つの省の境目にある関所となる場所で、空海が食べた豆腐が後に、高野豆腐となったと言われています。
桃源郷のような山間の美しい村での滞在のあと、また江郎山の断崖絶壁を超えるという試練もありましたが、空海が青年の頃から修験者と一緒に山を駆け回っていたことで鍛えられた 健脚が役に立ち、無事乗り越える事が出来ました。

江郎山)
(江郎山)

そうして再び、山から川に戻り杭州の冨春江という村に滞在しました。
そこでも水上で暮らす独特の文化を持っていることで漢民族から差別され、戸籍も無い人々の逞しく生きる暮らしを目にしました。

その後、ようやく唐へと続く運河で船出し、河に沿って唐へたどり着く事が出来ました。

空海が、遣唐使船の難破により遠回りをしたからこそ目にした川で暮らす水上生活者の生活や、山に追われ密かに暮らす民族などの生き方は、仏教とは無縁の世界でしたが、空海にとって深く心に刻まれた出来事だったと思います。
その出会いと、唐で学んだ真言密教とが交じり合ったことで自然界の全ての人、物が幸せに生きられる世の中にしたいという後の日本での救済活動にも役立ったのではないかと思えて来ます。
そして、たった2年の旅でしたが、空海の才能を持ってこそ、唐への道が開かれたのだと感じました。
次回は筆の達人でもあった空海は、書にはどのような影響をもたらしたか調べて行きたいと思います。

つづく

アラビア商人 2022年02月13日

先週に引き続き、イスラーム文化の世界交易によって、世界に文化が広がったという流れが段々見えて来ましたのでさらに調べてみました。
2世紀頃からペルシャ湾~インド洋交易=海のシルクロードが開通され、アラビア(イスラム)商人などによる大航海時代が始まり1500年間存在していました。
大型船だと逆風でも進め、最大で一隻、ラクダ600頭を運ぶ事が可能だったほどでした。
エジプト(カイロ)が国際的に交易の拠点となり、東南アジア、中国にも絹織物、塩、胡椒、砂糖、陶磁器、香辛料、コーヒー、お茶、乳香、木材など、沢山のものがイスラム商人によって伝来されました。

中国のイスラーム
(中国のイスラーム)

4年前に参加した中国、揚州への旅で、それが分かる光景をいたるところで目にしました。
まさにイスラム文化が融合した東洋のベニスと言われている街だけあり、中華+オリエンタルな印象で美しかったですが、見るべき所は他にあり、イスラム商人が塩の交易で栄華を極め、富豪を成した人々がパトロンとなり、(清時代)文人書家一派の、揚州八怪(※)たちの個性あふれる書や画が誕生したという点で、その背景がつながり、とても納得できました。
(※鄭板橋、金農、などが代表的ですが、8人以上おりますが八怪と呼ばれています。)

中国清七宝香炉
(中国清七宝香炉)

さらにそのころ乾隆帝の時代(1711~1799年)は中国が最高に栄華を極めた時代でもあり、乾隆帝自らも、書や美術を愛する芸術家でした。
今でも、中国製の美術品には、乾隆帝の名前が入っている物が多く、乾隆帝が認めた物であるというブランド品として沢山出回っています。

大陸書道 2022年02月07日

前回記事の回教展からのつづきです。

アラビア書道画像
(アラビア書道 参考画像)

イスラム文化での書道芸術について考えてみました。
イスラム教の書は、アラビア書道と言われ、イスラームの美術品にも文字がびっしり刻まれていたり、モスクのタイルと一緒に掲げられていてデザイン装飾として見て、とても美しい文字です。
意味としては、殆どがイスラム教の聖典(コーラン)が書かれています。
今のイラクの首都バクダッド(イスラーム文化の中心都市)で王朝御用書家を養成し、世代が変わっても、一点一画が同じように書けるような技法で作られ、それによって文字が変わらずに継承されて来ました。
日本でも奈良時代に、厳しい試験を受けた写経生が写経所で寝泊まりし、朝から晩まで写経していた事と同じようなシステムだと思われます。
因みに日本で「アラビア書道」と呼んでいるのは、紙に墨で書いているという点が重なるからだそうですが、アラビア書道は葦や竹ペンを使用しており、筆先は毛筆のように、墨を沢山含まなく弾力も無いため、多様な線は出ません。
もともと一般庶民の文字では無いので個性は殆ど無いですが、代りに整然とした秩序があり、その美しさに心惹かれます。

モンゴル書道家の作品集
(モンゴル書道家の作品集より)

そして、もっとアラビア書道に近いのがモンゴル書道です。
モンゴル文字は、アラビア文字を縦書きにした文字だそうです。
同じ大陸なので、西から東に文字が普及していったと考えられます。
モンゴルでは遊牧生活のため、もともと文字文化は発展していなかったイメージでしたが、昨今になり、6世紀ころ書かれたモンゴル文字が発見されたそうです。
日本の飛鳥、奈良時代と同じ時期だということになります。
なぜモンゴル文字になって、横ではなく縦書きになったかという理由は分かりませんが、中国で4世紀に紙が誕生した事からモンゴルでも紙が普及し、縦書きになったのかなとも想像できます。
モンゴル書家の書を見ていると、紙面全体を使って大きなベクトルで書かれているため遊牧民の行動範囲の広さから来ているのでは?と文字心理学の視点で見て感じました。

2022年01月の漢字エッセイ

回教展 2022年01月30日

イスラーム世界の幾何学模様
(ブルーモスクの天井・参照)

先日、東京国立博物館で開催されている「イスラーム王朝とムスリムの世界展」を拝観して来ました。
シルクロードでお馴染みの建造物(モスク)のブルーの世界に想いを馳せて、異国の地に足を踏み入れたような贅沢な時間に酔いしれて来ました。
イスラーム文化や美術のことは、興味がありながらも、殆ど知らない事だらけでしたので、少しだけ調べてみると、イスラーム文化圏だけに留まらず、中国、日本にも長い道のりを通り、身近な存在である書にも影響が及んでいることが分かりました。

「豆知識として」
◆イスラーム王朝は、14代の王朝が交代した歴史がありその中で、オスマン朝が600年間で最長の王朝でした。
◆「ムスリム」とは、イスラム教徒を表わしたアラビア語でアラーの神の教えに帰依する者を意味しています。イスラム教徒は、世界の人口4分の1も占めているそうです。

数学「幾何学文様」
◆ムスリムの世界の美術には、幾何学的な組紐文様、渦巻き植物文様、碑銘などの文字文様の装飾的特徴があり、人間や動物は殆ど描かれることはありません。
千年以上の時を重ねても、ムスリムの宮廷工房の職人たちが製作する文様は、同じ文様で表現され続けて来ており、初期のころに数学の概念を基本とした幾何学文様を誕生させ、左右対称の規則的な文様の(タイル)で建造物の壁面や調度品を埋め尽くし、神の無限性を強調させていると思われます。

次週につづく

2022年01月23日

兆「亀の甲羅」

手へん「兆」はト兆(占い)の形で亀の甲羅に灼けて出来てヒビ割れの形です。
挑戦『戦いを仕掛けること。また困難なことに立ち向かうこと』

先日、ライオンズクラブの新年会があり、書初めの講師としてお招き頂き、初挑戦でしたが講演をさせて頂きました。
今までだったらお断りしていたかも知れないのですが、何故かやってみたいという気持ちが勝っていたので、約2週間程度で色々と企画を練り、準備をして臨みました。
準備の中で、ぶらっと立ち寄った本屋で、たまたま手に取った本が大谷翔平選手の青年時代から取材し書き下された本でした。
「挑戦するマインド」と小さな文字で書かれたキャッチコピーに惹かれ、思わず買ってしまいました。
本人の言葉で、自分を俯瞰して見た時の長所として、現状が良くても悪くても守りに行かないでどんどん変えて行くことが良いところだと述べられていました。
すごくいい状態でも、それを維持して行こうというよりはさらにそれを超える技術を一つ試してみようと思うこと= "挑戦するマインド" とのことでした。
そのマインドが二刀流の誰にも出来ない大谷選手を作り上げたのだということが分かりました。
大谷選手の書いた文字の筆跡を見ても、かなり右上がりが強く、意志の強さと、起筆が強いのも、一つ一つの物事に集中し真剣に取り組む姿勢が伺えます。
字と字がぶつかっている箇所も所々あり、周囲を気にして、ほどほどに自分を抑えてたりするのではなくのびのびと自分を出せる性格なのも、字に表れています。

新年会も、無事に終わり、参加者の方々から、良かったという感想も頂いたそうなので安心しました。
これをきっかけに、今年の私の漢字1文字は「挑」の字で行こうと思っています。

関東上空の景色
(上空からの舞浜と富士山)

2022年01月10日

柴又帝釈天

今年は、7年ぶりに柴又帝釈天の門を潜り、元旦から初詣ではなく、護摩札の揮毫という縁起の良いお仕事をさせて頂きに行って参りました。
柴又帝釈天は、「男はつらいよ」の寅さんのお寺として親しまれている印象が強いがために、お寺の正式名称が「経栄山題経寺」と言い、日蓮宗のお寺だということは、意外に知らない方も多いかと思います。
私にとっても、今年のお正月はお寺で過ごしたため、「参」の漢字がふさわしく思いましたので、ご紹介したいと思います。
「参」は、元の字は ムが3つあり、3本のかんざしを頭髪に指している人「巫女」がひざまずいている姿を現しています。
「参拝」は神社、お寺へ行き拝む儀式のことで、「参詣」は拝むことも含んではいますが、お寺神社へ行くことの行為全てを含んでいます。

ストーンヘンジ

参拝巡礼の歴史を遡ると、イギリスのストーンヘンジという古代遺跡があります。 紀元前2500年から紀元前2000年の間に造られたとされ、高さ7メートル位の巨石円柱をサークル状に並べた単純な形ですが、巨大な石をどうやって運んだかなど、謎に包まれている事が多いそうです。
このサークルはお墓として、多くの人々が眠っているそうですが、その地域の人々(民族)だけではなく、かなり遠方からもわざわざ巡礼者が決まった日に訪れ、 盛大な宴が催されていました。
太陽に祈ることで、生命の恵みを維持すると信じられ、沢山の人々と共有し合うことで生きる希望を見い出し、エネルギーを温存するという儀式が行われていたことが分かっています。
考えてみると、現代でもお正月に何となく神社やお寺に参拝に行ったり、大事な人に会う、家族に会う、などを習慣として来ましたが、古代から共通の意味を持って続けられて来ているということを考えると、人間にとって共通の重要な行為なのかなという気がして来ました。
私も、自分のパワースポットを見つけてみたくなりました。

2021年12月の漢字エッセイ

金剛 2021年12月26日

先日、今年の世相を表す漢字は、「金」と清水寺で発表になりました。
お正月も間近に迫り、お寺や神社へお参りに行かれる方も多いと思うので、それに因み、掘り下げてみました。
まず、金剛力士像の「金剛」は仏教用語で 最も硬いものという意味で、金よりも硬いダイヤモンドを金剛石と言ったりもします。
金剛力士(仁王様)は、全国各地のお寺に沢山見かけますが、中でも東大寺の南大門に立つ仁王像、運慶・快慶作が有名です。
なぜ迫力のあるお顔と筋肉隆々の体つきの2体が門の両脇で出迎えてくれているかというと、金剛力士は元々は1体でしたが分身の術で2体に分かれたから、そっくりなのだとか。
そして両者の口の形はそれぞれ「阿」と「吽」の形になっており、阿吽の呼吸で、人々を警護してくれる健康の神=ガードマンとして存在しているのです。
実際の相撲でも立ち合いで息を合わせる事を「阿吽の呼吸」と言い、まさに金剛力士と重なりますね。
ちなみに「阿」は物事の出発点、言葉(音)の始まりを表わし、「吽」は物事の終着点で、言葉 (音)の終わりを表わしている事から、前回の「一」と「円相」と同じ意味を持っているということに偶然気がつきました。

円相 2021年12月19日

禅宗では、「円相」は悟りの形とされており、禅僧が書いた円相が主に書として沢山あります。
円窓とも言い、己の心を見つめる窓という意味で座禅をしながら、床の間に円相を掛けることが多くあるようです。
円相は、終わりの無く延々と続く宇宙を表していたり、始まりと終わり、また、地球そのものの形でもあり、円満で縁起が良い意味など、様々ですが、円を見ていると幸福感を抱き暖かい気持ちになるのは、人類共通かも知れません。

宇宙旅行 2021年12月12日

先日、いよいよ実業家の前澤氏が乗った宇宙船が打ち上げられ、宇宙へ旅立ちました。
人類の長年の夢を背負った旅立ちと、報道されているのを聞き、アボリジニの天文説を思い出しました。

「アボリジニ」は、オーストラリアの先住民で、アボリジニのポップで自由な絵は、大地のエネルギーが溢れています。
特徴としては、点描で細密に書き込まれカラフルで大胆な構図がとても魅力的で、私もアボリジニアート展を5年前くらいに観に行き、虜になりました。
でも、もともと古代では、飾るためにアートとして描かれたのではなく、乾いた荒野の中、狩りで移動する際の道標となった水場や、岩場に絵を描き、何万年もかけて沢山の旅人(狩人)が描き足して行き、部族の縄張りを主張する為だったことや、獲物の情報などを仲間に伝えたいという側面があって描いたものだとされています。

描かれているモチーフも、アボリジニの暮らしに身近に居た動物や、魚、風景などが主ですが、太陽を描く時に黒点も描かれていることも証拠の一つとなり、今までのメソポタミアや、エジプトの天文学より10倍も古くからアボリジニ天文学は、存在していた事が近年になって分かってきたそうです。
他にも明るい星を地図に見立て方角を計ったり、エミューという鳥の一生を星座に映し出し、その変化からカレンダー代わりにして、家族皆で夜空を見上げて、何世代も親から子へ神話として語り継がれていました。
古代の人々の天体の観察力というか、視力、聴力、運動能力は今の何倍も、研ぎ澄まされたいたに違いなく、その優れた五感を持った人々が描いたものは、アートを超えた価値があるように思います。
現代の宇宙科学の進化も素晴らしいですが、神話の世界からは遠く離れて行くばかりで古代の天文説が愛おしいく感じてしまいます。

2021年12月04日

「虎」の起源
先週の「龍」に続いて来年の干支「虎」の起源について調べてみました。
「龍と虎」をモチーフにした龍虎図など、日本では室町時代から戦国武将や、僧侶の間で人気が高く、「雲をよぶ龍」と、「風を起こす虎」を対峙(たいじ)させ絶対的な王者同志が争うこと、の例えとして知られています。
元々、虎は中国や韓国では、古代では守護神として信仰され、仏教美術では山神(精霊)として、そして絵画では、君主として描かれ、韓国の民画では、咆哮している恐い虎というよりは人間的な表情でユーモラスに描かれていることが多いのだそうです。
日本では龍はもちろん、虎も生息していないため、想像でさらに飛躍させた日本独自の愛嬌のある丸顔の虎が多く見られます。
また、虎は黄金の毛色を持つことや、一日に千里も離れた場所へ行っても、その日のうちにちゃんと元の場所へ戻って来ることや、子供を可愛がって大事に育てることからも、お金がすぐ戻る、家宝を大事にする、という縁起の良い動物と言われています。

作品「虎」
私の新作「金の虎」作品です。玄関などに飾ると運が上がりそうです!

2021年11月の漢字エッセイ

2021年11月27日

「龍」の起源
1908年今から113年前に、中国東北部に位置する内モンゴル自治区の森で紀元前4700~3000年前頃の紅山文化の玉製の龍が、日本の考古学者の鳥居龍蔵先生により発見され、それが最古の龍と言われています。
最初は、北方の動物で鹿+馬(馬龍)、猪(豚)+馬(猪龍)のそれぞれ2体の合体動物でしたが、他国を占領下にする度に、多民族の文化をも吸収し、その国のシンボル(トーテム)の動物を龍の中に複合させて行きました。
北から南へと支配を広げ、南の守護神である蛇が龍の胴体となり、最後に西域の駱駝(ラクダ)の顔が加わり最終的に9つ動物が合体したと言われています。
おそらく、顔のパーツだけ見ても①鼻の皺=猪、②口=ワニ ③目=鷲か虎? ④鼻=ラクダ ⑤たてがみ=馬、獅子? ⑥ひげ=ナマズなど?沢山の動物が融合されているのではないかなと思います。
私の2020年の「一」をテーマにした作品で、「華神」という漢数字の「一」の中に龍が顔を出している作品がありますが、中国だけでなく、シルクロードで西洋から東洋が一つに繋がり西からの文化が日本にまで到達し、今でも沢山の異文化が生活の中に息づいているという事を、龍と西洋の唐草文様をモチーフにしオリエンタルに表現しました。

※来月のCACAコンテンポラリー展に出品しますので、銀座まで足を運んで頂けると大変嬉しいです!

2021年11月20日

青銅「南宮乎鐘」
(2015年 始皇帝と大兵馬俑展図録より青銅「南宮乎鐘」)

南の漢字は白川静説によると、中国の南部に住んでいた苗族(ミャオ族)が使用していた楽器(銅鼓)の象形文字と書かれています。
鼓は太鼓をイメージしますが、底が無く吊り下げて敲いて鳴らしていたと書かれているので、太鼓を吊るして鐘のように使用していたようです。
ただ私には、青銅の鼓ではなく鐘が「南」の字の象形に見えるので画像で南の漢字と照らし合わせてみました。
因みに、「ミャオ」と「みなみ」も発音が似ているので、何か関係があるような気がしますが色々と諸説があるのであくまでも私感です。

龍馬手紙 2021年11月13日

今回は、あの幕末の土佐藩の武士、坂本龍馬が妻のお龍(おりょう)へ宛てた手紙の筆跡の特徴から、想像できる人物像を見て行きたいと思います。
龍馬は、姉に日々のことを手紙に綴るのが習慣だったことで龍馬の現存する手紙は、かなり多く残っていると言われいています。
そのため、写真の文字もカッコつけず、龍馬の自由で楽に書かれた筆致が意気揚々としていて、読めない字の方が多いですが、感じる事は多いなぁと思いました。

坂本龍馬の手紙1
(ザ・プロファイラー ~夢と野望の人生~『お龍おもしろき龍馬の妻」より)

①画像1の方で、全体を見た時に分かることはまず、巻紙の上の空きの部分が狭く、いきなり、紙ぎりぎりからどの行もスタートしているのが大きな特徴です。
紙の上下の余白が殆ど無いのは、どういう事かというと、紙の紙面=その人物の行動範囲だとして、端から端まで移動したいという願望と、行動力の現れだと言われています。
②次に、「土佐の士」と赤で囲った文字を見てもらうと分かるのが「土」と、「士」の文字の横画が左が長く、縦画の頭の部分が低く出ている点です。
左に吐出して長いのは、頭の回転の良さで、縦画の上は、吐出が高いほどプライドが高く、リーダーシップ気質を表しているとされていますが、意外にも、リーダーでありながら、他者を立てる面もあったのかなと思います。
特に、妻のお龍や、姉に手紙を頻繁に書いていたことからも、男尊女卑の考えの持ち主ではなく、気が合う相手の意見も聞き、自分を押し付けず、相手を敬う事を大切にしていた器の大きい人だったのだろうと思います。

坂本龍馬の手紙2
(ザ・プロファイラー ~夢と野望の人生~『お龍おもしろき龍馬の妻」より)

③3つ目は、画像2の方で熟語の部分の2字を三角で囲ってみました。
2字の上と下の字の大きさのバランスが、かなり大小に変化があり、書としてバランス感覚が良いのが分かります。
筆跡の特徴としては、文字の大きさが極端に違うのは、起伏に跳んだ人生を表していて波乱万丈型という事が言えます。
行が下に行くに連れて右にずれ、それを正すために急に左からまた書いているのも、危険を省みず苦しい環境に追い込んで、その結果新しい世界を生み出す芸術家肌の傾向とされており、龍馬の人生に当てはまるような気がしてきます。
ちなみに、龍馬は、蝦夷地への開拓の夢を抱いていたそうですので龍馬が生きていたら北海道も開拓当時から、先住民のアイヌを敬い、差別なく共存できるような社会を作っていたかも知れません。
私の出身地の帯広の画家、故坂本直行は六花亭の包装紙でとても身近な存在の画家でしたが、坂本龍馬の甥だということを近年知り、とても驚きました。
やはり、龍馬の芸術的なDNAが受け継がれたのかなと思いました。

2021年11月06日

羊がつく漢字は沢山ありますが、ウィグル族は、もともと遊牧民だったため羊と関わり深い民族です。
そうして見てみると漢字の中にも沢山ウィグルの文化が入っていることになります。
祥、翔、義、美、羨、善、様、達、など良い意味の言葉に使われています。
ウィグル絣(かすり)の布も、色調が日本の絣より鮮やかで砂漠の砂のように、色が混ざり合って掠れている感じが日本人の掠れ好きの感性とも合っているように思います。