Words & calligraphy

漢字エッセイ

書家・出口胡蝶の、書とことば。

20222月3編のエッセイ

空海の旅1

文 出口胡蝶

今回は、真言密教の開祖である弘法大師空海の遣唐使としての道中のお話です。
西暦804年(平安時代初期)国を立て直したいという意志を持った若き僧侶、空海31歳が最先端の仏教を学びに遣唐使船で唐へ向かいました。
そして師となる唐の国師、恵果に才能を気に入られ、中国の1000人の僧侶の中から、密教の正統な継承者としてただ一人選ばれました。
それもたった半年の修行期間でとは驚きです。

ただ、そこまで辿り着くまでの旅は大変過酷な道でした。

遣唐使船が嵐に見舞われ、34日間漂流し、予定より遠く400キロも南に辿りつきました。
最初に辿り着いたのが福建省沿岸部の蛇が沢山いる湿地帯で、8月上旬の夏の季節で気温は30度を超えていたと言われています。
そこは漢民族の支配がまだ及んでいない未開の地で、空海が現地の人々に日本から来た遣唐使だと告げても怪しがられるだけでした。
そこで、地域の地方長官に得意の手紙で、中国の漢文を交えた華麗な文章により、唐に行きたいという意志を書き示し渡したところ、中国でもこれだけの詩を詠む者はいないと驚き、唐から使者を呼び、約1ヶ月で迎えに来させました。

そしていよいよ唐の都へ出発します。
険しい山が多く、川を渡ることになりましたが蛇が沢山いる荒々しい過酷で危険な川でした。
途中で滞在した、廿八都という村は、3つの省の境目にある関所となる場所で、空海が食べた豆腐が後に、高野豆腐となったと言われています。
桃源郷のような山間の美しい村での滞在のあと、また江郎山の断崖絶壁を超えるという試練もありましたが、空海が青年の頃から修験者と一緒に山を駆け回っていたことで鍛えられた 健脚が役に立ち、無事乗り越える事が出来ました。

江郎山)
(江郎山)

そうして再び、山から川に戻り杭州の冨春江という村に滞在しました。
そこでも水上で暮らす独特の文化を持っていることで漢民族から差別され、戸籍も無い人々の逞しく生きる暮らしを目にしました。

その後、ようやく唐へと続く運河で船出し、河に沿って唐へたどり着く事が出来ました。

空海が、遣唐使船の難破により遠回りをしたからこそ目にした川で暮らす水上生活者の生活や、山に追われ密かに暮らす民族などの生き方は、仏教とは無縁の世界でしたが、空海にとって深く心に刻まれた出来事だったと思います。
その出会いと、唐で学んだ真言密教とが交じり合ったことで自然界の全ての人、物が幸せに生きられる世の中にしたいという後の日本での救済活動にも役立ったのではないかと思えて来ます。
そして、たった2年の旅でしたが、空海の才能を持ってこそ、唐への道が開かれたのだと感じました。
次回は筆の達人でもあった空海は、書にはどのような影響をもたらしたか調べて行きたいと思います。

つづく

アラビア商人

文 出口胡蝶

先週に引き続き、イスラーム文化の世界交易によって、世界に文化が広がったという流れが段々見えて来ましたのでさらに調べてみました。
2世紀頃からペルシャ湾~インド洋交易=海のシルクロードが開通され、アラビア(イスラム)商人などによる大航海時代が始まり1500年間存在していました。
大型船だと逆風でも進め、最大で一隻、ラクダ600頭を運ぶ事が可能だったほどでした。
エジプト(カイロ)が国際的に交易の拠点となり、東南アジア、中国にも絹織物、塩、胡椒、砂糖、陶磁器、香辛料、コーヒー、お茶、乳香、木材など、沢山のものがイスラム商人によって伝来されました。

中国のイスラーム
(中国のイスラーム)

4年前に参加した中国、揚州への旅で、それが分かる光景をいたるところで目にしました。
まさにイスラム文化が融合した東洋のベニスと言われている街だけあり、中華+オリエンタルな印象で美しかったですが、見るべき所は他にあり、イスラム商人が塩の交易で栄華を極め、富豪を成した人々がパトロンとなり、(清時代)文人書家一派の、揚州八怪(※)たちの個性あふれる書や画が誕生したという点で、その背景がつながり、とても納得できました。
(※鄭板橋、金農、などが代表的ですが、8人以上おりますが八怪と呼ばれています。)

中国清七宝香炉
(中国清七宝香炉)

さらにそのころ乾隆帝の時代(1711~1799年)は中国が最高に栄華を極めた時代でもあり、乾隆帝自らも、書や美術を愛する芸術家でした。
今でも、中国製の美術品には、乾隆帝の名前が入っている物が多く、乾隆帝が認めた物であるというブランド品として沢山出回っています。

大陸書道

文 出口胡蝶

前回記事の回教展からのつづきです。

アラビア書道画像
(アラビア書道 参考画像)

イスラム文化での書道芸術について考えてみました。
イスラム教の書は、アラビア書道と言われ、イスラームの美術品にも文字がびっしり刻まれていたり、モスクのタイルと一緒に掲げられていてデザイン装飾として見て、とても美しい文字です。
意味としては、殆どがイスラム教の聖典(コーラン)が書かれています。
今のイラクの首都バクダッド(イスラーム文化の中心都市)で王朝御用書家を養成し、世代が変わっても、一点一画が同じように書けるような技法で作られ、それによって文字が変わらずに継承されて来ました。
日本でも奈良時代に、厳しい試験を受けた写経生が写経所で寝泊まりし、朝から晩まで写経していた事と同じようなシステムだと思われます。
因みに日本で「アラビア書道」と呼んでいるのは、紙に墨で書いているという点が重なるからだそうですが、アラビア書道は葦や竹ペンを使用しており、筆先は毛筆のように、墨を沢山含まなく弾力も無いため、多様な線は出ません。
もともと一般庶民の文字では無いので個性は殆ど無いですが、代りに整然とした秩序があり、その美しさに心惹かれます。

モンゴル書道家の作品集
(モンゴル書道家の作品集より)

そして、もっとアラビア書道に近いのがモンゴル書道です。
モンゴル文字は、アラビア文字を縦書きにした文字だそうです。
同じ大陸なので、西から東に文字が普及していったと考えられます。
モンゴルでは遊牧生活のため、もともと文字文化は発展していなかったイメージでしたが、昨今になり、6世紀ころ書かれたモンゴル文字が発見されたそうです。
日本の飛鳥、奈良時代と同じ時期だということになります。
なぜモンゴル文字になって、横ではなく縦書きになったかという理由は分かりませんが、中国で4世紀に紙が誕生した事からモンゴルでも紙が普及し、縦書きになったのかなとも想像できます。
モンゴル書家の書を見ていると、紙面全体を使って大きなベクトルで書かれているため遊牧民の行動範囲の広さから来ているのでは?と文字心理学の視点で見て感じました。