空海の旅1
今回は、真言密教の開祖である弘法大師空海の遣唐使としての道中のお話です。
西暦804年(平安時代初期)国を立て直したいという意志を持った若き僧侶、空海31歳が最先端の仏教を学びに遣唐使船で唐へ向かいました。
そして師となる唐の国師、恵果に才能を気に入られ、中国の1000人の僧侶の中から、密教の正統な継承者としてただ一人選ばれました。
それもたった半年の修行期間でとは驚きです。
ただ、そこまで辿り着くまでの旅は大変過酷な道でした。
遣唐使船が嵐に見舞われ、34日間漂流し、予定より遠く400キロも南に辿りつきました。
最初に辿り着いたのが福建省沿岸部の蛇が沢山いる湿地帯で、8月上旬の夏の季節で気温は30度を超えていたと言われています。
そこは漢民族の支配がまだ及んでいない未開の地で、空海が現地の人々に日本から来た遣唐使だと告げても怪しがられるだけでした。
そこで、地域の地方長官に得意の手紙で、中国の漢文を交えた華麗な文章により、唐に行きたいという意志を書き示し渡したところ、中国でもこれだけの詩を詠む者はいないと驚き、唐から使者を呼び、約1ヶ月で迎えに来させました。
そしていよいよ唐の都へ出発します。
険しい山が多く、川を渡ることになりましたが蛇が沢山いる荒々しい過酷で危険な川でした。
途中で滞在した、廿八都という村は、3つの省の境目にある関所となる場所で、空海が食べた豆腐が後に、高野豆腐となったと言われています。
桃源郷のような山間の美しい村での滞在のあと、また江郎山の断崖絶壁を超えるという試練もありましたが、空海が青年の頃から修験者と一緒に山を駆け回っていたことで鍛えられた
健脚が役に立ち、無事乗り越える事が出来ました。

そうして再び、山から川に戻り杭州の冨春江という村に滞在しました。
そこでも水上で暮らす独特の文化を持っていることで漢民族から差別され、戸籍も無い人々の逞しく生きる暮らしを目にしました。
その後、ようやく唐へと続く運河で船出し、河に沿って唐へたどり着く事が出来ました。
空海が、遣唐使船の難破により遠回りをしたからこそ目にした川で暮らす水上生活者の生活や、山に追われ密かに暮らす民族などの生き方は、仏教とは無縁の世界でしたが、空海にとって深く心に刻まれた出来事だったと思います。
その出会いと、唐で学んだ真言密教とが交じり合ったことで自然界の全ての人、物が幸せに生きられる世の中にしたいという後の日本での救済活動にも役立ったのではないかと思えて来ます。
そして、たった2年の旅でしたが、空海の才能を持ってこそ、唐への道が開かれたのだと感じました。
次回は筆の達人でもあった空海は、書にはどのような影響をもたらしたか調べて行きたいと思います。
つづく



