Words & calligraphy

漢字エッセイ

書家・出口胡蝶の、書とことば。

20223月5編のエッセイ

千字文1

文 出口胡蝶

天地玄黃  宇宙洪荒
日月盈昃  辰宿列張
寒來暑往  秋收冬藏
(冒頭6首)

遣唐使が持ち帰って来たのでは?と考えている「千字文」について、書道を学ぶ上て縦糸として重要なものであるため今回取り上げてみたいと思います。
西暦500年頃の中国(唐時代より、100年くらい前の時代、北魏後期)で、梁の武帝が皇子たちに字の教育のためにお手本となるものが欲しい考え、漢詩が得意な文章家の役人である周興嗣に作らせました。(一晩で作らせたことで、髪の毛が真っ白になったという逸話があります。)

4字対句が250首で計1000文字の漢詩が連なる事から千字文と言われています。

文の内容は、限られた字数のなかで最大限の知識や漢民族の伝統文化を継承させるよう工夫されており、道教の哲学である森羅万象(宇宙観)を網羅しながら 国を治めるための儒教の倫理教育のも兼ねている内容となっています。

つづく

遣唐使

文 出口胡蝶

遣唐使

阿倍仲麻呂と並んで、唐で名を残した日本人がもう一人、吉備真備(きびのまきび)という公家、政治家です。(※吉備団子の吉備(岡山県)出身)
真備は今から1300年前の奈良時代716~717年、玄昉、阿倍仲麻呂らと一緒に日本から唐へ旅立ちました。
そして、約20年近く唐で過ごした真備ですが、どうやってその間、生活費を稼いでいたかというと意外なものでした。

当時の長安では、各国からの留学生の生活費は、皇帝から絹地で支給されていましたが、遣唐使が必要とした書物に費用がかさみ、あっという間に日本から持参したお金も、皇帝からの生活費も底をついてしまいました。
因みに、当時は印刷された本を買うのではなく、お金を払って自分で書き写していたとの事なので、大変な作業ですが、書き写す事で知識となり、文字を書くという技術も身についたことと思います。
現代の自分に置き換えると、ネットで購入し、それで満足して、ろくに読まないで置いてある、という事が愚かに思えてきます…。

吉備真備が書いた墓誌
(吉備真備が書いた墓誌)

そこで真備は、唐の役人や富裕層の間で流行っていた墓誌の文字を勉強し、筆耕?のアルバイトを始めます。
もともと字が得意だった事が身を助ける事になり、仕事の依頼が殺到したそうです。
そしてその事で、相当な地位を獲得し、唐の貴族や知識人のサロンに出入りするようになり、シルクロード=ブックロードから集まった世界中の本に触れ、手に入れる事が出来たそうです。

吉備真備資料 新聞切り抜き

墓誌の字を書ける人が唐でも稀だったそうで、かなり重宝されたのは意外でしたが、私の上京して来た当初を振り返り、筆耕で仕事の依頼が来るようになったプロセスとも似ているな~と、おこがましくも、次元が違い過ぎますが真備が大先輩のように思えてきました。
真備は字が書けただけでなく、言語も巧みで、政治家としても優秀だったため玄宗皇帝からも気に入られていたようです。
しかし惜しまれつつも、帰国が叶い20年の間に集めた本と、楽器などを日本に沢山持ち帰り日本の右大臣にまで異例の出世を果たし、日本文化に大きな影響を及ぼしました。

真備や他の遣唐使が持ち帰って来た沢山の本の中に、あの空海が子供の頃にお手本にしたとされる千字文があったのだろうと思うと、空海に唐への憧れを抱かせるきっかけになったかも知れないと想像を膨らませました。

つづく

阿倍仲麻呂

文 出口胡蝶

阿倍仲麻呂『前賢故実』より
(阿倍仲麻呂『前賢故実』より 菊池容斎画©Public Domain)

玄宗皇帝が若くて美しい楊貴妃に夢中になり、政治が脆弱になり宮廷が腐敗していた事で隙を突かれてしまいます。
唐の軍人 安禄山(イラン系ソグド人)によって「安史の乱」が起き、玄宗皇帝は、唐から追われ、ウィグル人に助けられました。 そして一瞬、安禄山に唐を奪われてしまいましたが安禄山もその後滅ぼされました。 そんな混乱の中で阿倍仲麻呂は、日本に一時帰国を試みましたが、途中で嵐に合い、脱出が叶わないまま唐へ引き返しました。

そして日本に帰る事をずっと願っていた仲麻呂が、故郷を思い詠んだ歌です。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」

(※三笠山は、奈良県奈良市の春日大社の裏手にある山です)

仲麻呂が空海と違う点は、役人として秀才だったことだと思いますが、科挙の試験を受けた時点で、唐での役人の道を自ら選んでしまったのではないでしょうか。
空海は、仲麻呂の事を知っていたと思いますが、仲麻呂を反面教師としすぐに日本に帰って密教を広めたいんだ!という気持ちがあったからこそ、2年足らずで帰国したのでは?という思いがいたします。

つづく

楊貴妃

文 出口胡蝶

東西交流の3つの道

空海は、約1200年前に遣唐使として訪れたことを考えると、すでに東西の交易が盛んに行われていましたので、唐の都長安で西域の文化人や、建築、美術、工芸品なども目にしていたはずです。
そして、唐の娯楽では胡旋舞(こせんぶ)と言って、サマルカンド地方のシルクロードの行商人であったソグド人の故郷の踊りが流行し、楊貴妃も得意としていたそうです。

シルクロード風景

因みに、空海が805年に唐に到着したことから計算すると、楊貴妃が玄宗皇帝の寵姫になったのが750年頃のため、50年くらい空海が後になり、楊貴妃と空海の直接の接点は残念ながら無かったと思いますが、楊貴妃のような美女が長安には沢山いたのではないかと思います。

胡旋舞

因みに、空海より前に遣唐使で唐へ渡っていた阿倍仲麻呂は中国の中でも最難関とされる科挙の試験に合格し、玄宗皇帝の側近となり日本へ帰る事が許されず717年~770年(死客)までの53年もの月日を唐で過ごしました。
しかも、阿倍仲麻呂と楊貴妃の恋のロマンスの話があることも知り驚きました。

つづく

空海の旅2

文 出口胡蝶

中国地図
(空海の旅した道筋)

今回は、空海が目にしたであろうイスラム文化を探ってみました。

空海が辿り着いた福州よりもっと南にある中国の最南端の海南島は、1000年以上前から海のシルクロードとして中国大陸の入口でした。 アラブからの大きな貿易船が必ず経由するため、多くのイスラム人が定住し暮らしていました。今でも、メッカへの祈りが込められたイスラム書道文字の掛け軸が家の中にも掛けられています。

イスラム書道の掛け軸
(イスラム書道の掛け軸)

そして次の港、広東省広州市もイスラム系の人々が多く、中国式のイスラム風建築で異国情緒のある街です。 沢山の文化が混ざり合い、特に「食は広州にあり」と言われるほど「食」への情熱が強くエネルギッシュな都市だそうです。
そして次に空海が最初に辿り着いた福州、そして揚州も、イスラムの商人が沢山交易で滞在し、居住していました。
空海が滞在し、豆腐を食べた山奥の村もアラビア様式の建造物が建ち並ぶ村でした。

イスラム教徒のお祈り

本当に、知れば知るほど中国には日本よりも、かなり早くから西洋文化が流れている事に気がつきました。
そして空海が、長安への旅の途中でそれを始めて目にし、何を感じていたかを想像するだけでわくわくしますね。

つづく