遣唐使

阿倍仲麻呂と並んで、唐で名を残した日本人がもう一人、吉備真備(きびのまきび)という公家、政治家です。(※吉備団子の吉備(岡山県)出身)
真備は今から1300年前の奈良時代716~717年、玄昉、阿倍仲麻呂らと一緒に日本から唐へ旅立ちました。
そして、約20年近く唐で過ごした真備ですが、どうやってその間、生活費を稼いでいたかというと意外なものでした。
当時の長安では、各国からの留学生の生活費は、皇帝から絹地で支給されていましたが、遣唐使が必要とした書物に費用がかさみ、あっという間に日本から持参したお金も、皇帝からの生活費も底をついてしまいました。
因みに、当時は印刷された本を買うのではなく、お金を払って自分で書き写していたとの事なので、大変な作業ですが、書き写す事で知識となり、文字を書くという技術も身についたことと思います。
現代の自分に置き換えると、ネットで購入し、それで満足して、ろくに読まないで置いてある、という事が愚かに思えてきます…。

そこで真備は、唐の役人や富裕層の間で流行っていた墓誌の文字を勉強し、筆耕?のアルバイトを始めます。
もともと字が得意だった事が身を助ける事になり、仕事の依頼が殺到したそうです。
そしてその事で、相当な地位を獲得し、唐の貴族や知識人のサロンに出入りするようになり、シルクロード=ブックロードから集まった世界中の本に触れ、手に入れる事が出来たそうです。

墓誌の字を書ける人が唐でも稀だったそうで、かなり重宝されたのは意外でしたが、私の上京して来た当初を振り返り、筆耕で仕事の依頼が来るようになったプロセスとも似ているな~と、おこがましくも、次元が違い過ぎますが真備が大先輩のように思えてきました。
真備は字が書けただけでなく、言語も巧みで、政治家としても優秀だったため玄宗皇帝からも気に入られていたようです。
しかし惜しまれつつも、帰国が叶い20年の間に集めた本と、楽器などを日本に沢山持ち帰り日本の右大臣にまで異例の出世を果たし、日本文化に大きな影響を及ぼしました。
真備や他の遣唐使が持ち帰って来た沢山の本の中に、あの空海が子供の頃にお手本にしたとされる千字文があったのだろうと思うと、空海に唐への憧れを抱かせるきっかけになったかも知れないと想像を膨らませました。
つづく
書き手のまなざしに、もう少し。